Quantcast
Channel: 留学マナビジン
Viewing all 1946 articles
Browse latest View live

第1部 3章 泥沼の日中戦争(4/10)参謀本部は和平を望み、政府は戦争継続を望んだ

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(3/10)日中全面戦争と南京事件の真実

5.泥沼の日中戦争へ

5-7.参謀本部は和平を望み、政府は戦争継続を望んだ

その1.トラウトマン和平工作

日本軍が南京を占領する前から、日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えるための和平工作に着手していました。外務・陸軍・海軍の三省の首脳は、第三国の公正な斡旋(あっせん)の申出があれば、先に立ち消えとなった船津工作案の範囲内で和平を受け入れる方針を決定し、10月27日には英米仏独伊に対して、その旨を伝えました。

それに対して手を挙げたのが、ドイツでした。日本は1936(昭和11)年11月に、ドイツとの間に防共協定を結んでいました。防共協定とは、共産主義に対抗するために日本とドイツが結んだ協定です。

ドイツは日本が中国との戦争で戦力を消耗してしまうと共産主義国であるソ連との戦いに支障を来すため、ドイツの国防上不利になると考えたのです。

また、戦争が長引くことで対中貿易に悪影響を及ぼすことも、ドイツにとっては好ましくありませんでした。中国はドイツの貿易にとって大切なお客様でした。

10月下旬にドイツのヒトラー総統は、日中の仲裁に入ることを表明しました。11月初旬、日本は和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えています。

日中戦争
wikipedia:アドルフ・ヒトラー より引用
アドルフ・ヒトラー 1889年 - 1945年

ドイツの政治家。オーストリア生まれ。第1次世界大戦に志願して出征した後、ドイツ労働者党に入党、党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称して党首となった。

ミュンヘン一揆に失敗して入獄。出獄後は合法活動によって党勢を拡大し、1933年に首相、翌年大統領を兼ねて総統となり全体主義的独裁体制を確立。いわゆる第三帝国を建設した。反ユダヤ主義とゲルマン民族の優越性を主張、ユダヤ民族撲滅を目指してホロコーストを実行した。強硬外交と軍備拡張により近隣諸国を次々に侵略し、第2次大戦を引き起こした。ベルリン陥落直前、官邸にて自殺を遂げた。

その内容は船津工作案を引き継ぐものであり、華北については南京政権に任すなど日本側が大幅に譲歩した内容でした。ディルクセンは「極めて穏健なもので、南京は面子を失うことなく受諾できるのだから、この条件を受諾するやう南京政府に圧力を行使することが賢明」と、本国に報告しています。

ドイツ政府も日本側の和平条件を妥当なものと判断し、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側の和平条件を伝えました。

しかし、蒋介石はいったんはこれを拒否しました。ちょうどベルギー・ブリュッセルにて九ヵ国条約会議が開催されていたため、蔣介石はそこで参加各国が対日制裁を科すことに期待を寄せていたためです。ところが会議では日本に対する非難決議は採択されたものの、対日制裁は見送られる結果となりました。

日本軍は南京に迫っていました。もはや一刻の猶予もままならない状況に追い込まれてから、蒋介石は12月初旬にトラウトマンと会談しました。

側近の将軍たちは「もしも日本の条件がそれだけであるならば、われらは一体何のために戦っているのか判らぬではないか」「それだけの条件ならばすみやかに応ずるが可なり」と答えたと伝えられています。

蒋介石もついに折れ、領土・主権の保全を前提に、日本側の和平条件を話し合いの基礎として受け入れることに同意しました。

トラウトマンは帰途の船上において、「会談結果すこぶる有望なり」とベルリンと東京に至急電を打っています。

ここまで来たら、あとは細かい条件を確認し合い、日中が同意したところでヒトラー総統の名において正式に調停が交わされるのを待つだけです。

広田外相は念のために陸海軍と改めて協議したところ、「八月初めの案(船津工作案)にて差し支えなし」との回答を得たことにより、日支事変は12月をもって和平へと至る見通しとなりました。

戦況が日本にとって圧倒的に有利であったにもかかわらず、陸軍が華北の権益を手放す譲歩案に同意したことは勇断でした。参謀本部には石原の残した「事変不拡大」の意思がまだ息づいていました。多少不利な和平案であっても、1日も早く日中戦争を終わらせることが日本を救うことになると固く信じていたのです。

近衛首相と広田外相は、これで和平が成立すると喜び、前祝いの盃を交わしたと伝えられています。

ところが、ここから事態は思わぬ展開を見せます。結果的にトラウトマン和平工作は失敗に終わり、日中戦争は以後も継続されたのです。

いったい何があったのでしょうか?

その2.すり替えられた和平条件

ー 世論に支持された強硬論 ー

和平工作は三省の首脳によるトップ・シークレットとして進められたものでした。参謀本部は和平に同意していたものの、陸軍は破竹の勢いで戦勝を重ねていただけに、軍上層部の大半が和平案に反対することは明らかでした。

和平が成るまでは秘密に事を運び、和平が成った後に軍部からの猛烈な批判を受ける覚悟が参謀本部首脳にはできていました。

ところが、傍受電報の解読やドイツ大使館からの情報によって、和平案の内容は軍部の知るところとなりました。徹底的に武力制圧を主張する強硬派は気色ばみ、「広田斬るべし」と暴言を吐く軍人もいました。「省部ノ下僚色メク」と参謀本部内の日誌にも綴られています。

情報はマスコミにも流れ、和平工作を鋭く批判しました。「支那内外よりする調停説の俄(にわ)かに台頭し来たったことは大いに警戒を要するところである」と、南京陥落が近いにもかかわらず調停に流れる愚を説きました。

政府内にも和平交渉の中止を求める声が上がりました。ことに海軍大将として予備役に回っていた末次信正内相は海軍内の強硬派を代表する論者として「徹底的に叩いて懲らしめない限り中国人は日本に協力する民族ではない」と、戦争の継続を要請しました。

日中戦争
wikipedia:末次信正 より引用
末次信正(すえつぐ のぶまさ) 1880(明治13)年 - 1944(昭和19)年

明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。潜水艦戦術で頭角を現し、『筑摩』艦長・第1潜水戦隊司令官・海軍大学教官・教育局長を歴任ののち、軍令部次長。加藤寛治軍令部長とともにロンドン海軍軍縮条約に強硬に反対した。

その後第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官を経て、横須賀鎮守府司令長官・軍事参議官を歴任して退役。第一次近衛文麿内閣の内相となり、日中和平を目指したトラウトマン工作を拒絶、蒋介石を対手とせずとの声明を出すよう主張した。潜水艦戦術の権威として知られる。

やがて12月13日に日本軍が南京を占領すると、国内は早くも戦勝気分に包まれ「対等条件での和平案など愚劣にも程がある」との論調で埋め尽くされました。強硬論に染まる世論の高まりは、近衛首相と広田外相にも大きな影響を与えたようです。

末次内相はますます強弁となり「勝者が一銭の賠償も取らずに和平を申し出るなぞは、国民が承知せぬ」と、日本が譲歩した和平案に強く反対しました。

14日に大本営政府連絡会議が開かれると、末次内相は会議への出席を要求しました。ちなみに戦時・事変の統帥機関である大本営は、杭州湾上陸後の11月下旬に設置されました。大本営と内閣による大本営政府連絡会議は、国家レベルでの事実上の最高指導機関です。

連絡会議にて末次内相は「支那軍に徹底的大打撃をあたえることは、九月五日に近衛首相が天下に声明したところである。しかるに今その途中において妥協を企てることは不信であるのみならず、膺懲(ようちょう=征伐してこらしめること)を経ない解決はかならず事変を再発するに決まっている。ゆえに今日停戦するとすれば、彼が膺懲されて屈服した実態においてのみ認め得る」と主張し、会議をリードしました。

つまり、停戦するのであれば、日本が戦勝国としての待遇を得られる条件を付けるべきだと要求したことになります。

末次内相の剣幕に、平等条件での和平を進めていたはずの近衛首相も広田外相も沈黙を続けました。

ー 参謀本部は声涙とともに和平を説いた ー

弱腰の政府首脳に代わり、あくまでも妥協案での和平交渉を進めるべしと抗ったのが、参謀本部の代表者として送られた多田駿参謀次長でした。

日中戦争
wikipedia:多田駿 より引用
多田駿(ただ はやお) 1882(明治15)年 - 1948(昭和23)年

大正-昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。支那駐屯軍司令官・第十一師団長を経て参謀次長となる。日中戦争に際しては石原の意志を継ぎ不拡大方針を最後まで主張し、日中和平の実現に尽くした。

ことに「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛首相・広田外相・杉山元陸相・米内海相)に対し、日中戦争がいかに日中両国民にとって不幸かを涙ながらに説いたことは有名。その後、参謀本部を追われ、第三軍司令官・北支那方面軍司令官を歴任。一時は陸相就任も有力視されたが、東条英機を推す派閥に阻まれ、実現しなかった。

戦後、A級戦犯容疑者に指定されたが巣鴨プリズンに収容されることがないまま病没。死の一週間後に戦犯指定が解除された。

多田は繰り返し粘り強く、今こそ和平を結ぶ必要があることを説きました。ところが多田の意に反して杉山陸相はおろか、近衛首相・広田外相さえも次第に強硬論になびいていったのです。

日中戦争
wikipedia:杉山元 より引用
杉山元(すぎやま げん/はじめ)

明治-昭和時代の軍人。最終階級は元帥陸軍大将。満州事変勃発の際は陸軍次官、のち参謀次長・教育総監を歴任。日中戦争では陸軍大臣として短期終結の見通しから拡大論を唱え、日中全面戦争化を推し進めた。その後、参謀総長に就任、大東亜戦争の開戦から44年まで陸軍全般の作戦指導にあたった。本土決戦に備え第一総軍司令官となるが終戦を迎え、昭和20年9月12日に自決した。

孤立するなか、多田は涙を流してまで切々と和平を説きました。そのときのことを近衛内閣の書記官長として、大本営政府連絡会議に出席していた風見章が手記に残しています。

[一二月]一四日、重ねて[大本営政府]連絡会議を首相官邸に開く。……開会の後、多田中将発言す。日支戦争の無用と、その如何に日支両国民に取りて不幸なるかを説きて声涙ともに下る。」
(風見章著『手記・第一次近衛内閣時代』『風見章日記・関係資料』より引用)

日中戦争
wikipedia:風見章 より引用
風見章(かざみ あきら) 1886(明治19年)年 - 1961(昭和36年)年
昭和時代の政治家。「信濃毎日新聞」主筆を経て民政党から衆議院議員(当選9回)となる。第1次近衛文麿内閣では書記官長、第2次近衛内閣では法相となり、近衛文麿のブレーンの一人として新体制運動を推進する。大戦後は日本社会党左派に属し日中国交回復や平和運動に尽力。

多田一人が現状のままの和平案を進めるべきと訴えても、他の参加者が全員強硬論を良しとするなか、連絡会議は末次内相の弁に沿うように、これまでの日本が譲歩した和平案を捨て去り、新たに4条件を掲げて交渉にあたることに決しました。

これにより従来の和平条件からは華北を南京政府に任すという項目が削られ、中国が日本に対して賠償を支払うなど、戦勝国が敗戦国に対して求めるかのような厳しい条件にすり替わったのです。

この決定にもっとも驚いたのは参謀本部です。参謀本部はかねてより、南京が陥落しても蒋介石政権が崩壊することはないと判断していました。だからこそ日中戦争が長期化することでソ連が参戦することを恐れ、譲歩してでも講和を実現すべきと訴えてきました。

政府にしても早期講和を望んでいただけに、参謀本部は政府と手を携えて講和に向けて努めてきました。ところが南京陥落を受けて近衛首相と広田外相が180度考えを変えてしまうとは、まったく予期していないことでした。「まさか政府が……」と参謀本部はあ然としました。

一般的には、統帥権の独立を盾に参謀本部(軍人)が戦争にはやり、対して内閣(政治家)は和平を求めるといったイメージが強いかもしれません。しかし、この時期は間違いなく逆でした。

戦争にかけてはプロフェッショナルの軍人が集う参謀本部がひたすら和平を求めたことに対し、政治家から成る内閣はそれを弱腰だと批判し、強硬論を主張して止まなかったのです。

多田参謀次長は手記を残しています。
「普通は強硬なるべき統帥府がかえって弱気にて、弱気なるべき政府が強硬なりしは奇怪に感ぜらるるも、真実なり。」

これ以降も、早期講和を求める参謀本部と、それを良しとしない内閣との争いが続けられることになります。

12月21日に最終案が閣議決定され、翌22日、新たな4条件がディルクセン大使に提示されました。

さらに具体的な条件も閣議で決まっており、ディルクセンの質問に応じて開示されました。そこには、中国による満州国の正式承認や、華北を事実上日本が支配すること、さらに内蒙に防共自治政府を設立する条項などが盛り込まれていました。

それはどう見ても、中国側が受け入れるとは思えない条項のオンパレードでした。

12月26日にトラウトマンから新たな条件を聞いた行政院副院長孔祥熙(こう・しょうき)は「日本が提出した条件には思いつくかぎりのすべてのことが含まれている。日本は十個の特殊政権と十個の非軍事区が欲しいとでもいうのだろうか。こんな条件を受け入れられるものはいない。日本は将来に思いを致さなければ自ら滅亡するだろう」と語っています。

日中戦争
wikipedia:孔祥熙 より引用
孔祥熙(こう しょうき) 1880年 - 1967年

中国の政治家・実業家。蒋介石と並ぶ、中国-民国時代の四大家族財閥の一人。辛亥革命後、南京国民政府工商部長・財政部長・中央銀行総裁を歴任、行政院院長となる。南京国民政府時代に国民党および国民政府の要職に就くことで財産蓄積の基礎をつくり、日中戦争時期の統制経済の中で大財閥に発展した。孔家の腐敗体質については何かと問題となった。

蒋介石も日記(『蒋介石秘録―日中関係八十年の証言』)に次のように記しています。
「倭寇(日本)が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてはならない」

日本の新たな条件を南京政府が容認できないのは当然といえるでしょう。日本側にしても誰一人として中国が条件を呑むとは本気で思ってなどいませんでした。

その3.御前会議の行方

ー 御前会議の争点とは ー

日中戦争
ウィキペディア より引用
1938年1月の御前会議

12月24日の閣議では「事変対処要綱」が決定されましたが、強硬論に染まったその内容は驚くべきものでした。近衛首相と広田外相の変節ぶりは明らかでした。

それは華北を第二の満州にするも同然の内容でした。華北を南京政府に任すとした先の和平案とは真逆です。さらに上海を日本の領有にするかのような記述もあり、欧米諸国への配慮もまったくありません。

こんなことをすれば欧米が日本を侵略者とみなし、対日制裁に踏み切ることは火を見るより明らかです。政治に関しては素人にすぎない、近衛首相の馬脚を表したともいえる無茶苦茶な内容でした。

参謀本部の中堅将校たちは陸海軍および外務の事務当局のもとを何度も訪れ、「事変対処要綱」のごときは日中国交の大局を誤るものと主張し、早急に御前会議を開いて日中外交の基本方針を確認し、侵略を否認することを内外に向けて知らしめる必要があると説きました。

その結果、1938(昭和13)年1月11日、日支事変対策のための最初の御前会議が開かれました。それは日露戦争以来はじめて開かれる御前会議でした。

ここで再度整理しておくと、参謀本部は日本が譲歩した条件での即時講和を主張し、陸軍省は徹底的に中国を叩きのめすために戦争継続か、あるいは日本を戦勝国とする条件での和平交渉をすべきと主張しました。

中国側が新たな条件を受け入れるとは考えにくいため、陸軍省は戦争継続を望んでいるも同然です。和平か戦争継続かの対立と言ってよいでしょう。

参謀本部とは天皇に直属した機関であり、戦時における指揮命令を司りました。参謀本部の統帥権は独立しています。一方、陸軍省は陸軍の編成に関する予算措置と運用を行うための機関です。陸軍省は内閣に属します。

参謀本部と陸軍省の力関係は、ほぼ五分五分です。ということはキャスティングボートを握るのは近衛首相と広田外相です。

二人が参謀本部に同調するならば、先の和平案での講和が進められ、陸軍省の強硬論に同調するのであれば中国が容認できそうにない厳しい条件での和平交渉を進めることが決します。

ですが、すでに近衛首相と広田外相が強硬論に染まっていることは、12月14日の連絡会議の動向を見ても明らかでした。さらに1月9日の連絡会議と閣議にて、中国に対して降伏条件を突きつけるに等しい和平条件が議決されたことは、さらなるだめ押しでした。

となると、御前会議の争点はただ一つです。参謀本部が天皇の御前にて9日の議決をひっくり返せるかどうかに、すべてがかかっていました。

ー 封じられた天皇の御質問 ー

かくして運命の御前会議が始まりました。御前会議とは、文字通り天皇を前にして行われる会議のことです。御前会議ともなると天皇の意見が大勢を左右するように思われがちですが、まったく違います。

実は昭和に入ってからの御前会議には、暗黙のルールがありました。それは、天皇はひと言も言葉を発してはいけないという定めです。天皇は意見を述べることも、質問をすることさえ事実上、禁止されていたのです。もちろん議決に参加することもできません。

それは元老の西園寺公望により、皇室が政治責任を負うことがないように配慮して定められた決まりでした。憲法の趣旨に従い「君臨すれども統治せず」を目指したのです。

日中戦争
wikipedia:西園寺公望 より引用
西園寺公望(さいおんじ きんもち) 1849(嘉永2)年 - 1940(昭和15)年

明治・大正・昭和の政治家。公爵。王政復古に際し参与となり、鳥羽伏見の戦いに参戦。10年間フランスに留学、帰国後明治法律学校(のちの明治大学)を創立。文相・外相・蔵相などを歴任、日露戦争後、桂太郎と交互に政権を担当。陸軍と対立して総辞職した後は元老として首班推薦の任に当たる。パリ平和会議では首席全権を務める。最後の元老として宮中グループの隠然たる大御所と目され、政界に影響を与え続けた。

御前会議においては、天皇はただの聴衆者に過ぎません。陛下の御前において決せられることで議決の重さが増すことのみに、御前会議の価値がありました。

しかし、今回の御前会議に先立っては異例のことが起きています。軍令部総長であった伏見宮から内大臣に対して、陛下の御発言を必要とする旨が提言されたのです。恐らくは天皇自らが日本の行く末を決める重大な御前会議に臨み、今回ばかりは意見を述べることを希望されたのかもしれません。

日中戦争
wikipedia:伏見宮博恭王 より引用
伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう) 1875(明治8)年 - 1946(昭和21)年

明治時代-昭和時代の皇族・元帥。明治維新前に創立された宮家中で最も古い伏見宮家の23代。日露戦争では連合艦隊旗艦「三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。横須賀鎮守府司令長官・海大校長・第2艦隊司令長官・軍事参事官を経て、海軍軍令部総長となり海軍統帥の最高責任者として昭和天皇を補佐した。皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富だった。戦後、皇籍を離脱。

内大臣は会議の前日に人を送って、唯一の元老西園寺にお伺いを立てました。西園寺の返事は「陛下は単なる御質問の程度ならば御発言差し支えなかろう。ただし、会議を左右するような御言葉は不可」というものでした。

質問のみとはいえ、これまでひと言も口にできなかったことに比べれば、大きな進歩です。天皇が強硬論に対して質問を投げかければ、それだけで強硬論をけん制する効果が生じます。

ところが、これに近衛首相が反対します。内大臣から御前会議にて天皇からの質問が認められたことを聞いた近衛首相は、「本案は総理大臣の全責任においてすでに決定し、単に御前で本格的に決めるだけだから、従来どおり御発言なきことを望む」と言い放ちました。

そのため内大臣はその夜、天皇に拝謁(はいえつ)すると従来通り無発言を言上しました。今回も天皇は会議の行方をただ黙って見守るよりありませんでした。

日中戦争
wikipedia:昭和天皇 より引用
昭和天皇(しょうわてんのう) 1901〈明治34〉年 - 1989〈昭和64〉年

第124代天皇(在位: 1926〈昭和元〉年12月25日 - 1989〈昭和64〉年1月7日)。名は裕仁(ひろひと)。日本の皇太子として初めての外遊でヨーロッパを訪問。帰国後、大正天皇重病のため摂政宮に就任し、代わって公務につく。大正天皇崩御により践祚(せんそ)、「昭和」と改元。

大東亜戦争の開戦に際し「宣戦の詔書」を発する。多くの歴史学者が「当時の憲法で天皇は最高決定権をもっていたが、実際には政府や軍が決定した方針を承認するにすぎなかった」と指摘している。日中戦争についても日米開戦についても、強く躊躇(ちゅうちょ)の態度を表明するも、正規の手続きによって裁可を求められたものについては、最終的に裁可を与えるよりなかった。

しかし、ポツダム宣言受諾か本土決戦かをめぐり内閣と統帥部が分裂し、態度決定ができなかった際は、はっきり受諾の意思を表明し、最終決定に決定的な役割を果たし、日本を終戦に導いた。

8月15日の玉音放送は国民一般が天皇の生の声を聞いた最初であり、これによって円滑な降伏が実現した。戦後は「人間宣言」を発することで天皇の神格を否定し、全国各地を巡幸して再建に働く国民を激励。日本中で熱烈な歓迎を受けた。日本国憲法にて「国民統合の象徴」と位置づけられ、以後その役割を忠実に果たした。生物学者としても知られる。87歳で逝去。在位期間は62年で歴代最長。天皇として最も長命だった。

これ以降、西園寺の死去に伴い、天皇が御前会議でご発言されることもまれにはありました。しかし、天皇が最終的な決断を下すことは、ずっと避けられてきました。

唯一の例外となったのは終戦時、本土決戦計画を否定して国民を救われた「御聖断」です。それは昭和天皇が生涯で下した、ただ一度の御裁可でした。

ー 御前会議で決せられたこと ー

御前会議に参謀本部の代表として出席したのは、参謀総長閑院宮殿下でした。即時和平を悲願とする参謀本部の期待を一身に背負って会議に臨んだ殿下でしたが、「戦勝国が敗戦国にのぞむような態度や観念を去り、東洋永遠の平和という大乗的立場から条件を決めるべきだ」と原則論を掲げたのみで、「それを含んで原案に同意する」とさっさと9日に決まった条件に賛成してしまいました。

日中戦争
wikipedia:閑院宮載仁親王 より引用
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう) 1865年(慶応元)年 - 1945(昭和20)年

伏見宮邦家親王第16王子。後継のいなくなった閑院宮を継ぎ第6代当主となる。終戦直前まで皇族軍人として活躍。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。参謀総長に就任後、皇道派の真崎甚三郎と対立し、統制派に近い立場をとった。

ただし、皇族として実務にはあまり関与せず参謀次長が総長の業務も行っていた。貴族院創設と同時に皇族議員となり薨去(こうきょ)まで54年6ヶ月間務めたが、これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録(議員としての活動実態は皆無)。大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物としても知られる。

御前会議にて逆転を狙おうとした参謀本部の目論見は、あっさりと崩れ去ったのです。殿下の人柄からして、孤軍奮闘して議決をひっくり返すような大胆な行動を期待すること自体に無理があったといえるでしょう。

かくして御前会議にて停戦条件九ヵ条が決定されました。前文には日本の高圧的な姿勢がはっきりと示されています。

すなわち、南京政府が和議に応じない場合には、その後は南京政府を相手とする事変解決には期待をかけることなく、中国に新たな政権が樹立されるように助け、この新たな政権とともに新中国の建設に協力する、との趣旨です。

中国の広大な領土と4億の民の存在を無視したあまりにも浅はかな基本方針が決せられたのです。

その4.早期講和か戦争継続か、日本の運命を変えた 1・15

ー 政府の強硬論 ー

年末に提示された新たな4条件に対する中国からの回答が寄せられたのは、1月14日のことでした。中国側はあらためて要求細目の確認を日本政府に求めてきました。

日本の改変案は従来のものよりも範囲が広いため、中国政府としては十分に検討して確たる返答をなすため、新条件の性質と内容とを詳しく伝えてほしいとの返事でした。

その返答に広田外相は憤りました。広田外相は日本の掲げた条件を中国が受諾(じゅだく)するのか否かのどちらかの回答が来るものと期待していました。そのため、中国の返答はただの時間稼ぎとしか見えなかったのです。

交渉の打ち切りを恐れたディルクゼン大使は、日本側の詳細条件を書面で伝えたわけではないのだから、日本側から書面で中国側に具体的条件を伝えた上で21日か22日まで回答を待つことを提案しました。

しかし、広田外相の怒りは収まらず、ディルクゼン大使はベルリンに「敗北して和を乞わざるを得ないのは支那自身ではないか、生意気を言うナ、と言わんばかりの剣幕であった」と電信しています。

中国側の返答に対してどう答えるべきかを決めるための連絡会議が1月15日に開かれました。

ここでも政府はかたくなに強硬論を主張しました。南京政府が日本の提示した停戦条件に対して無条件に応じるのでなければ交渉を打ち切り、徹底的に打撃を与えるまで戦い続けるべきだと言い張りました。

対して参謀本部は、現在の交渉を継続することで終戦に導くように一段と努力を払うべきだと主張しました。

激論は4時間に及びました。実は1月初旬に「講和問題に関する所信」と題された筆者不明の近衛文書が見つかっています。そこには、政府の定めた方針が赤裸々に語られています。

「政府としては今次事変を契機として禍乱の根源を将来に残さざるよう徹底的なる解決を期し、そのためには相当長期にわたる対戦もあえて辞せざる覚悟と用意とをなし、……姑息(こそく)なる妥協は極力排すべきものとす」

「独逸(ドイツ)大使を通じての今回の交渉にたいしても必ずしも衷心(ちゅうしん)より賛成せるにあらず、ただ軍部側の切なる希望もあり、かつ今回提示せる要求はわが最小限度の要求なりとの了解のもとに賛成したものなり」

「政府側としては軍部がかくのごとき拙策(せっさく)を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ」

あの戦争と日本人』半藤一利著(文藝春秋)より引用

ことに参謀本部が推し進めようとしている早期講和を「軍部がかくのごとき拙策」と批判していることは驚くべきことです。はじめは政府とて、その方針で動いていたはずです。

連絡会議に参加していた面々が、この近衛文書の内容を知るよしもないものの、すでに政府として強硬な姿勢を示すことが決せられていただけに、それを覆すことは至難の業であったといえるでしょう。

ー 激論! 連絡会議 ー

今回の連絡会議は日本の行く末を決める重要な会議であったため、皇族の参加は見送られました。参謀本部からは閑院宮参謀総長に代わって多田参謀次長が出席しています。連絡会議は次のような経過をたどりました。

広田外相が中国側は日本の提示した条件を拒否する姿勢であること、交渉の見込みがないことを告げると、多田参謀次長は政府がまだ中国に対して詳しい条件を通告していないことを指摘し、日本国の興廃に関するほどの戦略的重要性を有するのだから、書面にして中国に伝えるべきだと主張しました。

この機会を逸すれば長期戦争に発展する危険があるだけに、外交によって事変の解決を期すべきであると、多田は何度も何度も力説しています。

それでも広田は譲らず、中国側が詳細を知りたいと申し出るのは単なる時間稼ぎのためであり、誠意が認められないと突っぱねます。

海軍の参謀本部にあたる軍令部の次長古賀峯一は多田に同調しました。中国が詳しい条件を知りたいと希望するのであれば、それを示せば良いではないか、交渉を打ち切るのは早計であると述べています。

日中戦争
wikipedia:古賀峯一 より引用
古賀峯一(こが みねいち) 1885(明治18)年 - 1944(昭和19)年

大正-昭和時代の軍人。最終階級は元帥海軍大将。ロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省首席副官を務め、暗殺される覚悟で条約締結に尽力。軍令部次長・第2艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官を歴任。山本五十六戦死後の連合艦隊司令長官となる。

パラオ大空襲に際し、パラオからダバオへ飛行艇で移動中に行方不明となり殉職した(海軍乙事件)。戦死ではなく殉職とされた事が原因で靖国神社には合祀されていない。死後元帥に昇進。

ここで杉山陸相と米内海相は、交渉を続けて見込みがあるかないかの判断は外相に一任すべきであると説きました。杉山と多田は激しく激論を交わしました。

その際、米内海相は「参謀本部は政府を信用しないというのか。統帥部がそのように反対するならば、政府はもう総辞職するしかない」と、内閣総辞職まで匂わせて多田に圧力をかけています。

今、こんな大変なときに総辞職に至るようでは国益を大きく損なうことが見えているだけに、多田としても立場がありません。

それでも多田は「明治天皇は、かつて朕に辞職なし、と仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなどいったい何事でありますか」と、あきらめることなく食い下がっています。

平行線をたどるなか、やむなく近衛は明朝改めて再議することを述べ、熱い大討論に幕が下ろされました。

ー 近衛首相はなぜ変節したのか? ー

政府としては参謀本部と軍令部が反対することはわかっていたものの、結局は折れるだろうと予測していただけに、ここまでかたくなに反対するとは計算外でした。

その日の夜、政府は緊急閣議を開きます。その結果、政府は中国との交渉打ち切りを再確認し、政府でまとめた「声明書」を用意しました。翌日の連絡会議において、その承認を押しつけることを決めたのです。参謀本部の反対を無視しての強行です。

それにしても不思議なのは、戦争のプロであるはずの参謀本部がこれ以上の長期戦は戦えない、早急に講和すべきだと主張しているにもかかわらず、軍事に関しては素人に過ぎない政府首脳が戦争継続にしつこくこだわったことです。その真意については、現在に至るも謎とされています。

ただし、一つの説として軍需産業に携わる企業家が早期講和に反対したとの論があります。
参謀本部の堀場少佐は次のように述べています。

「軍需生産に当たる企業家も、支那事変が短期に終息するのでは、拡張施設に投資するのに躊躇せざるを得ないので、心ひそかに拡大長期化するのを念願していた者もないとは保証し得ないのであった。

 これらが世論を作り出し、対支膺懲の国論を盛り上げ、政府も、国論や政党の動向に迎合し、勢い強い声明を発し、和平条件にも過酷の要求を中国側に強いるという結果になる傾向もないではなかった。」

日中戦争
wikipedia:堀場一雄 より引用
堀場一雄(ほりば かずお) 1901(明治34)年 - 1953(昭和28)年

昭和時代の軍人。最終階級は陸軍大佐。参謀本部員をへて中国・ソ連などに駐在。帰国後、参謀本部戦争指導班に属し、日中戦争の不拡大に努めた。支那派遣軍参謀の後、大東亜戦争では南方軍参謀などをつとめた。

堀場の弁は、日本にも軍需産業で儲ける「死の商人」がいたことを示唆(しさ)しています。

また巷には、日中戦争処理に関し強硬策を採るように、右翼の壮士から近衛首相が脅迫されていたとの噂も飛び交いましたが、真相はわかっていません。

近衛やその他の要人の手記からは誰かに強迫されていたと言うよりは、「中国を武力で屈服させることは容易である」と近藤自身が楽観していた姿が浮かび上がってきます。結局は近衛の見識の低さと大局を見通す予見力のなかったことが、最大の原因といえるでしょう。

ー 四面楚歌 ー

その頃、参謀本部のもとには多田の陸軍士官学校時代の同期生や陸軍省の要職に就いている人々が、入れ替わり立ち替わり説得に訪れました。彼らは口々に、これ以上の反対をすべきではないと多田をいさめました。

これ以上反対を続ければ内閣は総辞職する、そうなれば参謀本部が内閣を倒したことになり、世論を敵に回すことになるとの論です。たしかに庶民はすでに早くも日の丸の旗行列や提灯行列に興じ、「勝った、勝った」と騒いでいました。南京政府の首都である南京を陥落させたのだから、日本の勝利で戦争が終わると信じていたためです。

日中戦争
http://www.asagaya.or.jp/archives/archives.html より引用
南京陥落を祝う提灯行列

新聞もそうした論調で埋まっていました。今こそ中国をこらしめるときだと、世論を煽りにあおっていたのです。

四面楚歌のなか、多田はついに「国民政府を相手にせずという方式には不同意なれども、今回の政府の決定には反対を差しひかうることとする」と、翌日の連絡会議を待たずに、政府に一任することに同意せざるを得ませんでした。

ー 間に合わなかった「帷幄上奏権」ー

それでもまだ、参謀本部はあきらめていませんでした。その夜、なんとしても戦争継続を訴える政府の声明文の発表を止めようと、参謀たちが集まり知恵を出し合いました。

そうして浮かび上がったのが、参謀本部の伝家の宝刀である「帷幄(いあく)上奏権」です。

「帷幄」とは、参謀本部のことです。参謀本部は天皇が直接率いる組織とされました。その一環で参謀本部長には上奏権が認められていました。「上奏権」とは、閣議を通すことなく、天皇に直に意見や事情などを申し上げることのできる権利です。つまり陸軍の参謀本部長と海軍の軍令部長は、直接天皇に意見具申して承認を仰ぐことができたのです。

閣議の決定は、近衛首相が天皇に報告に行き、認可を受けた時点で効力を発揮します。そこで参謀本部は、意見を文書にまとめた上で帷幄上奏権を用いて、近衛首相より先に天皇に渡そうとしたのです。

参謀本部は急いで上奏文を書く間に、閑院宮参謀総長を呼びに人を送りました。閑院宮は何も知らずにすっかり寛いでいます。そこへ上奏の話が舞い込んできたため、大あわてで軍服に着替えることになりました。

その頃はまだ閣議が終わっていません。参謀本部では閣議がいつ終わるかと気を揉むばかりです。午後8時、首相官邸での閣議が終了しました。近衛首相は車に乗って宮城に向かいます。

なんとしても近衛首相に先じようと参謀本部は閑院宮参謀総長を急かしますが、宮様だけに支度に時間がかかり、上奏文を持って出発したのが午後9時5分でした。

やがて閑院宮参謀総長が宮城に到着したときには、時すでに遅く、近衛首相の上奏が終わり、天皇の認可が下りた後でした。まさに万事休すです。

それでも閑院宮参謀総長は帷幄上奏を行い、本日の連絡会議決定に関して参謀本部は不同意であること、政府崩壊の内外に及ぼす影響を慮り、政府一任としたことを上奏しました。

しかし、すでに下りた認可を取り消すことはできません。こうして、参謀本部が政府に抗った長い1日は終わりました。

早期講和を求めた参謀本部の声はかき消され、政府主導により中国との和平交渉の打ち切りと戦争の継続が決定されたのです。

高嶋辰彦戦争指導班長は「陛下の熱烈なる和平のご念願も空しく、我ら半年の努力も実を結ばずして、事ここに至りたるを知る。実に千秋の恨事なり…翌日更に事実を確かめ、同室の秩父宮殿下を始め、一室満座悲憤の涙にむせぶ」と日記に無念さを綴っています。

日中戦争
高嶋辰彦─皇道の理想を追い求めた孤高のエリート軍人 より引用
高嶋辰彦(たかしま たつひこ) 1897(明治30)年 - 1978(昭和53)年

ドイツ留学後、参謀本部作戦課に所属。参謀第1部戦争指導班班長となり、日中戦争の不拡大に努める。後に西欧的侵略からの解放を目指し、東亜の再建とアジアの復興を期す『日本百年戦争宣言』を著す。

「昭和の天才」と呼ばれた仲小路彰らとともに、独自の「日本世界主義」思想を展開した。日中戦争不拡大の主張が東条ら軍上層部の不興を買い、参謀本部を追われ、台湾歩兵第一連隊長(台湾軍第四十八師団)として海南島に赴任。軍人ながら無駄な殺生を嫌い、一部射撃を受けてもこれに対して狙いを外して発射し、敵の人命をも尊び、時期を待って遂に降伏させ、1名も血塗らさなかったと伝えられる。

現地住民の保護にも貢献した。終戦に際し宮城事件(一部の軍によるクーデター未遂事件)の鎮圧に尽力。晩年は陸上自衛隊幹部学校の部外講師を務めた。

こうして翌日、日支事変中の最大の失敗と言われる 1・16 声明が、近衛首相によって発表されました。

その5.国民政府を相手とせず

日中戦争
https://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201609/article_17.html より引用
声明を読み上げる近衛首相

歴史に大きな汚点を残すことになった声明は次のごとくです。

帝国政府声明(一月十六日)
帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日におよべり。
しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内人民塗炭の苦を察せず、
外東亜全局の和平を顧みるところなし。

よって帝国政府は、爾後(じご)国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期し、これと国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。(以下略)

軍閥興亡史〈3〉日本開戦に至るまで』伊藤正徳著(潮書房光人社) より引用

ことに有名なのは「その後、国民政府を相手にせず」と強く断言している箇所です。国民政府を公式に否認し、それとは異なる親日政権樹立の意志を示したものです。つまり、言わば中国全土を満州化しようとするかのような声明でした。

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
1938(昭和13年)年1月17日付け東京朝日新聞

交渉の窓口をすべて閉ざさなければならない理由など何ひとつなかったにもかかわらず、強硬な態度により今後の交渉の余地を一切なくしたことは、日本の国益を大きく損なうことになりました。外交上、これほど大失敗した声明も珍しいといえるでしょう。

後年、このときの声明を批判された近衛は「後から直せばいいと思ってた」とこぼしたと伝えられています。有能な政治家に恵まれていなかったことは、この時代の日本にとっての悲劇です。

しかし、近衛の声明は国民から大喝采を浴び、近衛の人気はさらに高まりました。南京が陥落した今、国民政府が音を上げるのは時間の問題だと国民の大半が信じ切っていました。近衛の英断によって日本の国力はますます増すことになると、日本中が浮かれていたようです。

今、早期講和に踏み切らなければ戦争は拡大し長期化する、そうなれば幾万の兵をいたずらに泥沼の戦場に送り死なせることになると叫んだ参謀本部の声は、国民には届きませんでした。

一方、中国は近衛の声明を聞くことで、国家の存亡をかけて日本に対して徹底抗戦を誓い合い、国民党と共産党の結束はさらに強まりました。和平派はことごとく弾圧され、中国の総力をあげて抗日へと向かっていったのです。

日本政府による断絶宣言を受け、トラウトマン工作は打ち切られました。日中両国はそれぞれ駐在大使を引き揚げ、これより日本は出口のない長期戦の泥沼に入っていくことになります。参謀本部が何度も警告した通りに、事態は悪化の一途をたどったのです。

なお日本側との和平交渉に当たっていた高宗武は後に「日本側がもう少しねばってくれたら、トラウトマン交渉は成立したと思われる。近衛内閣の性急な一月十六日声明は返す返すも遺憾であった。……」と語っています。

日中戦争
wikipedia:高宗武 より引用
高宗武(こう そうぶ) 1905年 - 1994年

中国の政治家。日本に留学後、汪兆銘のもとでアジア局長を務める。日中戦争の和平派であり、のち重慶からハノイに脱出した汪兆銘と行動を共にした。日中戦争で武漢が陥落すると、極秘来日して対日交渉にあたる。日本の要求の厳しさに反発。汪に背いて香港に去った。その後アメリカに渡り、株式投資で財を築く。

早急に交渉を打ち切るのではなく、参謀本部が主張したようにもう少し粘り強く交渉を続けていたならば、講和へと至った可能性は残されていたようです。

もし、このときの首相が近衛でなかったならば、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。

政府の方針に抗い、最後まで和平を求めて戦った参謀本部の面々は、この後、そのことごとくが参謀本部を追われました。同年12月に多田は第三軍司令官として転出し、以後の参謀本部は拡大派を主導した武藤章たちによって仕切られることになりました。

参謀本部は和平を求め政府は戦争継続を望んだという歴史的な事実は、戦後になるとなぜか忘れ去られ、軍部の暴走ばかりが指弾されるようになります。

しかし、日中戦争が長期化し、泥沼化したことの責任は、政府の稚拙な外交にこそ求められるといえるでしょう。

 
参考URLと書籍の一覧はこちら


2019年4月1日にセブにユニークなコンセプトの英語学校「Four Word English Studio」オープン!

$
0
0

こんにちは。
TARGET Global English Academyの石原です。

TARGETを開校して6年が経ち、開校当初と比べると規模も倍以上となり、学生さんの国籍も増え、授業や講師の質も格段に上がりました。
 
この6年間たくさんの挑戦と失敗を繰り返し、多くのことを学び改善してきました。

そしてその中でふつふつ湧き上がる気持ちがありました。それは「日本人にとって最も効率的に英語力を上げる方法は?またそれを実現させる場を作ってみたい」といもの。

TARGETはこの6年間で多くのノウハウが蓄積しており、それを武器に新たなる挑戦をすることにしました。

僕たちはその舞台として2019年4月1日にセブに新たな英語学校「Four Word English Studio」をオープンさせることを決定しました。

ターゲット

授業時間ではなく、英語力の伸びを売る

現在のフィリピン留学の大きな特徴に、1日7〜8時間という長時間授業があります。中には11〜12時間授業の学校もあります。

欧米留学は平均1日4時間授業です。フィリピン留学は授業時間が長いのでそれだけ短期間で英語力が伸びるというイメージかと思いますが、この理論だと1日16時間やればさらに伸びるということになります。
 
ですが実際はそうはなりません。人間には集中力の限界というものがあり、集中力が切れた状態では勉強効率は非常に低いものになってしまいます。授業時間=英語力の伸びではありません。
 
また英語力を効率的に伸ばすには、授業以外にも自習時間の確保が重要です。

ターゲット

授業だけで疲弊してしまうようなカリキュラムでは、十分な自習時間が確保できず定着率が低くなってしまいます。
 
TARGETでもこの点は経験と共にわかってきたので、授業時間ではなく授業内容にフォーカスするように運用を変えていますが、どうしても授業時間信仰が強くこの切り替えが難しい学生さんも少なくありません。

現状多くのフィリピン留学の学校は授業時間を売っていますが(授業時間が長くなると料金も高くなる)、Four Wordは授業時間ではなく英語力の伸びを売ります。
 
その為、Four Wordのコースは1つだけ。授業時間は6時間とし、マンツーマン授業は3〜4時間(レベルにより異なる)となり、2〜3時間のグループ授業もインプットにフォーカスする授業も組み込みました。

その後2時間自習時間となり、日中の8時間の間に自習も含めて完了するというカリキュラムになっています。

時間数だけを見ると緩いように思われるかもしれませんが、授業内容は受動的なものではなく能動的なトレーニング型の授業になり、脳に負荷はよりかかるので密度は非常に濃い授業となります。

さらに授業は集中力を最大限有効活用するように1コマ50分ではなく25分に設定し、1日12コマで組まれています。途中で休憩を挟むことにより常に集中して受講できるようになっています。

日本では忍耐が美徳とされる傾向がありますが、精神論ではなく英語力向上の効率を追求したカリキュラムを提供します。

その他、マンツーマン授業は個室やパーテーションで区切った閉鎖的なスペースではなく、カフェのようなオシャレで開放的なスペースを用意しました。

ターゲット

これにより学生さんはより実生活に近い環境で学ぶことができ、また他の人の前で話すことの抵抗をより早く解消することができるというメリットがあります。

一方、先生も常にマネージャーが監視できる体制となるために、おしゃべりで時間を潰したり、サボったりすることはできず良い緊張感が保たれます。
 
その他、キャンパスのルーフトップにはセブの市街地を一望できる開放的な日本食レストランやカフェが併設されており、休み時間や放課後にはこちらでリフレッシュや自習などもできます。

ターゲット

長時間勉強したから伸びたという思い込み

多くの人は勉強時間=英語力の伸びと考えがちです。

長時間勉強すれば英語はそれだけ伸びるというイメージが強い原因として、気合いで長時間勉強した人が「私は早朝から深夜まで勉強したからこれだけ伸びた!」という声を信じてしまうというものがあります。

もちろん、超時間勉強することでも英語力は上がります。

しかし、それが効率的かというのは別です。多くの人は「もっと短い時間で集中してやればそれ以上の効果があったかもしれない」とは考えません。

これは格闘アニメの世界観で、辛い修行を長時間すればそれだけ強くなれるという図式そのものです。

ですが、現実は違って例えばプロスポーツ選手で1日中トレーニングしている人はいません。なぜなら、無駄な長時間トレーニングは効率が悪いことが証明されているからです。

これは自習時間も含めて言えることですが、集中力が切れた状態でダラダラ3時間勉強するより、集中して1時間勉強したほうが学習効率は高くなります。長時間勉強は達成感こそありますが、それに比例して英語力が伸びるわけではありません。
 
私達は精神的な達成感ではなく英語力の伸びにフォーカスをします。

奇をてらっているわけではない

上記のことは現在のフィリピン留学の主流とは外れてきますので、奇をてらっているように取られるかもしれません。

しかし、何も我々は奇抜さを目指しているわけではありません。TARGETが6年間英語教育に愚直に取り組み、その中で得られた経験と最近英語教育業界でも注目を集めている第二言語習得論という科学的な知見を合わせて得られた日本人に特化した理想形を求めた結果たどり着いた答えなのです。

まだまだ、日本では古い精神論が健在で、これだけ頑張った、こんなに多くの参考書をこなした、寝る時間を惜しんで机に向かったなど、下手すると逆効果に繋がってしまうことが良しとされる傾向があります。

我々はそういう勉強方法で伸びなかった方にこそ最適な勉強環境を提供したいと考えています。

あなたの英語力を伸ばす自信があります

現在のフィリピン留学の主流からはずれたコンセプトとなりますが、TARGETの6年間の経験と第二言語習得論という科学的な知見から組まれたカリキュラムで、必ずあなたの英語力を伸ばす自信があります。

と言っても新しい学校だし、心配だという方に12週間以上お申し込みの方でまず4週間受講していただき、もしこのやり方では英語力は伸びないとご満足頂けなかった方にはコース料金を全額返金する「全額返金制度」を設けました。

必ずあなたの英語力を伸ばしてみせます。

※詳細はFour Wordの公式WEBをご覧ください。
https://4word-english.com/

留学の目的は英語力を伸ばすだけではない

留学の主な目的は英語力を伸ばすというポイントになります。しかし、もし英語力を伸ばすことだけが目的であれば留学は必須ではありません。現に日本国内で上級英語力を身につけている人は大勢います。

特に今の日本では世界トップレベルの教材の充実度を誇りますし、カリスマ講師が講義や動画配信もしていますし、一昔前であれば難しいと言われていたスピーキングもSkype英会話も格安で受講できます。

フィリピン留学をしても早朝から晩まで机に向かって勉強するのであれば、日本国内で勉強した方が英語力は伸ばせる可能性がありますし、費用も抑えられます。

留学の醍醐味は英語力を伸ばすだけではなく、海外で実際に生活して異文化交流をしたり日本人同士でも日本では交流することがない自分とは全く異なった層(年齢、職業、人生観など)の人と出会うことで視野を広げ、将来の可能性を大きく広げられるところにあります。

ターゲット

ですから、Four Wordでは前述の通り自習時間も含めて短時間で効果を発揮できるプログラムを用意しているので、留学の醍醐味を余すことなく味わうことができます。

海外への最初の一歩としての場所

そんなFour wordはどんな学生さんに向いているのかというと、初級者(TOEICで言うと600点以下の方)向けにデザインされています。ですから、すでに中級の英語力があり上級を狙っていく方や、様々な国籍の学生さんと交流したいという方(学生さんは100%日本人となるので)は、TARGETをはじめ他の学校の方がマッチします。

Four Wordは日本人の初級者が、海外経験の第一歩としての基礎づくりができる場所として考えています。初級者はとりあえずFour Wordに行っておけば、そのあとは上級の英語試験コースでもワーキングホリデーでも、海外就職にも繋がる英語力をつけられるといった環境です。

もちろん、僕はオーストラリア留学・ワーキングホリデーの専門家でもありますし、メルボルンにオフィスもあるのでワーホリ希望者にも最適な環境をFour Wordでも提供できます。

欧米留学のフリースタイルを採用

TARGETを含めて、フィリピン留学は門限などルールがいろいろとある管理型が主流ですが、Four Wordは欧米留学のフリースタイルを採用しました。

そのコンセプトを前提にし、寮に選んだのはキャンパスから徒歩6〜7分の場所にある日本人の駐在員の方も利用する高級コンドミニアム。

ターゲット

安全面としては
・24時間セキュリティー
・オートロック
・各フロアには監視カメラ
があり、女性1人でも安心の環境です。

ターゲット

ターゲット

ターゲット

ターゲット

また、各部屋には
・温水シャワー&トイレ
・エアコン
・高速WIFI
・冷蔵庫
・キッチン(調理器具込み)
が備わっているので、自炊が可能になっており、食事にこだわりのある方も安心です。

ターゲット

お部屋は1人部屋、3人部屋、5人部屋をご用意
※二段ベットは使いません

また、周辺環境として徒歩2分以内の場所に
・大型スーパーマーケット
・有名日本食レストラン&各種レストラン
・24時間カフェ(高速WIFIのある提携カフェ)
・セブンイレブン
・マクドナルド
・薬局
・ランドリーショップ
などがあり便利に快適に生活することができます。

ターゲット
寮の向かいにある大型スーパーマーケット

ターゲット
マクドナルドも道を挟んだところにあります

便利なセブライフを満喫してもらえる環境をご用意しています。

現在は半額モニターキャンペーンを含む、超お得な開校キャンペーンを行っているので、是非セブ留学をご検討方はFour Wordにお越しください。

Four Wordの公式WEBはこちら。
https://4word-english.com/

Four WordもTARGETと同じく日々改善を繰り返し、皆さんから支持される学校へ育てていきますのでぜひご期待ください。

TARGET Global English Academy
石原智之

第1部 3章 泥沼の日中戦争(5/10)日本は残虐な侵略軍だったのか?歴史に埋もれた真実

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(4/10)参謀本部は和平を望み、政府は戦争継続を望んだ

5.泥沼の日中戦争へ

5-8.長沙が陥落したら…出口の見えない戦争

その1.日本は中国を侵略したのか?

日中戦争
http://asiareaction.com/blog-entry-3122.html より引用
河南省の通りを行進する日本軍 - 1937(昭和12)年

近衛首相による「国民政府を対手(あいて)とせず」声明は、昭和史最大の愚行と言われています。「対手(あいて)とせず」とはどういう意味なのかと、当時でも波紋を広げました。そこで2日後に政府は、「対手(あいて)とせず」とは国民政府を否認するに留まらず、国民政府を抹殺しようという意味だと説明しています。

これではまるで、日本が中国を侵略したように欧米諸国にわざと見せつけたいのかと勘ぐってしまうほどの強弁です。

日中戦争の経過をここまで追いかけてきてわかるように、日本が中国を侵略することを目的として戦争になったわけではありません。陸軍が推し進めた華北分離工作が中国側から見て侵略同然に見えたことはたしかですが、満州から出ようとしなかった日本軍を何度も何度も挑発していたのは中国軍であることも、またたしかです。

日中のすれ違いから互いに憎悪が高まり、盧溝橋事件へと至りました。戦線の拡大をなんとか食い止めようとした日本に対し、これまた挑発によって北支事変へと招き入れたのは中国です。

さらに華北から上海(華中)・華南へと戦線を拡大するように仕向けたのも中国です。そのため、日中全面戦争という最悪の事態に発展してしまいました。

つまり、日中戦争は日本による一方的な中国侵略とは断言できない面もあるのです。ところが南京を陥落させて以降の近衛首相による強気な外交姿勢は、あたかも日本が中国を侵略しているかのような印象を欧米に与えるに十分なものでした。そのことが日本にとって好ましくない結果を招くことは、予め予測できそうなものなのですが……。

その2.国家総動員法の制定

近衛声明によって日中戦争の長期化を避けられなくなったことを受けて、1938(昭和13)年4月1日より国家総動員法が公布されました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
戦時中のポスター

日中戦争による兵力動員は、すでに工業生産力を超えていました。労働者不足に苦しむ軍需産業を支えるためには、国民を工場に徴用するよりありませんでした。

この法律によって、物資・生産・商業取引・金融・物価・労働、さらには言論・表現などありとあらゆる分野にわたって国会の承認なしに、国家が勅令を制定することで統制、管理できるようになったのです。

国家総動員法は大東亜戦争が終わるまで、国民の生活を大きく縛りました。そのため、日本の軍国主義体制を生んだ悪法として、戦後は叩かれることになりました。

国家総動員法によって言論が弾圧されたことはたしかです。そのような法律がないほうがよいことも、当たり前のことです。

しかし、国家総動員法は戦時中という非常事態に際して、あくまで一時的に適用された法律に過ぎないことを忘れるべきではないでしょう。

そのことは近衛首相も公布の際に語っています。
「この法律はファッショ・イデオロギーによるものではなく、平時でも適用されるナチスの授権法と違って、戦時にだけ適用される」

第一次世界大戦より戦争は、国家総力戦の時代を迎えていました。ことに資源や資金の貧弱な日本は、国家の総力を挙げて戦争にすべてを振り向ける必要がありました。人も物もすべてを動員しなければ、戦争を継続できません。

その実施を勅令によったことには問題がありますが、国家総力戦を戦い抜くために統制経済へと移行したことは、日本だけではなく欧米諸国にしてもなんら変わりません。統制経済のもとで言論が制限されることは、欧米でも行われていました。

どんな民主主義国家であっても第二次大戦中はある程度、中央集権のもとで経済を統制し、機密保護の体制をとっています。第二次世界大戦は、国家総力戦体制を敷くことなく乗り切れるような規模の小さな戦争ではなかったのです。

日中戦争
ウィキペディア より引用
アメリカでも戦時体制が敷かれていた。軍需工場に動員された女性。

それにもかかわらず、日本の国家総動員法のみを槍玉に挙げるのは、公平性に欠けると言えるでしょう。

国家総動員法が制定された議会にて国家予算は35億円となり、臨時軍事費の追加予算として、国家予算額一年分を上まわる48億円(現在の約10兆円)が承認されました。その財政負担は公債の発行と増税によって賄われ、国民の生活を次第に圧迫することになります。

その3.徐州は陥落すれど、出口は見えず

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
徐州を目指し進軍する日本陸軍

「国民政府を対手とせず」と大見得を切ったものの、日本軍が即座に戦線を拡大したわけではありません。2月16日の御前会議においてはソ連の動きを警戒し、戦線不拡大方針を決定するとともに、兵力削減と召集兵の帰還を開始しています。

一方、南京を占領した現地軍は、華中北部の要衝である徐州付近の中国軍を討つべきだと何度も訴えましたが、参謀本部は不拡大の方針を固めており、これを認めませんでした。

しかし、不拡大を唱えていた河辺作戦課長が3月に更迭され、後任に拡大派の稲田正純が就くことになり、方針が180度変わることになりました。陸軍省・参謀本部ともに実務の中枢を拡大派が占めたことにより、陸軍内の意思がはじめて統一されたのです。

日中戦争
wikipedia:河辺虎四郎 より引用
河辺虎四郎(かわべ とらしろう)1890(明治23)年 - 1960(昭和35)年
大正-昭和期の軍人。最終階級は陸軍中将。参謀本部作戦課員となり、満州事変では関東軍の独走と対立。関東軍参謀を経て参謀本部戦争指導課長となり、日中戦争開始に際しては不拡大を主張した。参謀本部を追われドイツ大使館付武官・第2飛行師団長・第2航空軍司令官を経て帝国陸軍最後の参謀次長となる。

降伏条件受け入れの際は大本営代表としてマニラに赴きマッカーサーの命令を受けた。戦後はGHQ軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成した。河辺機関はその後、内閣調査室のシンクタンクである「世界政経調査会」となり、内閣調査室(日本の情報機関)に多大な影響を与えた。

日中戦争
wikipedia:稲田正純 より引用
稲田正純(いなだ まさずみ)1896(明治29)年 - 1986(昭和61)年
大正-昭和時代の軍人。最終階級は陸軍中将。フランス陸軍大学に留学後、参謀本部作戦課長となり、日中戦争の拡大を成し遂げた。ノモンハン事件の処理に当たる。大東亜戦争勃発時は第5軍参謀副長。その後南方を転戦、インパール作戦実施に強硬に反対し更迭された。

第六飛行師団長心得としてニューギニア島のホーランディアに駐屯していた際、米軍の奇襲上陸を受け、大部分の部下を見捨てて後方に脱出したことで停職二か月の処分に付された。敗戦時は本土決戦の主戦場に予定された九州地区の第16方面軍参謀長。九大における捕虜の生体解剖事件と敗戦時の米軍機乗員の捕虜殺害事件の責任を問われ、B級戦犯として巣鴨拘置所に収容、のちに釈放。

稲田作戦課長のもと、徐州作戦が承認されました。華北と華中の占領地域をつなげ、徐州付近の中国軍を南北から挟撃して壊滅させることを目的とした作戦です。

その頃、世界情勢にも大きな変化が現れていました。ナチス・ドイツがオーストリアを併合し、ヨーロッパに激震が走りました。第二次世界大戦へ向けて、時が刻み始めたのです。

4月上旬、大本営によって徐州作戦が発動され、日本陸軍は5月19日には徐州を占領しました。しかし、中国軍の主力を殲滅(せんめつ)することで戦争終結の機会をつかもうとした日本の思惑は外れました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
徐州作戦(隴海線方面)の戦闘経過と黄河氾濫地域(決壊による死者数含む)

中国軍は決戦を避け、早々に退却したためです。中国軍は兵力でどれだけ日本軍を圧倒していようとも、決戦することなく、広大な中国内部へと日本軍を誘い込みました。占領地が増えても、その占領地を守るためには兵力を割くよりなく、日本の防衛拠点は伸びる一方です。それでも中国軍を壊滅することができないため、戦いは永久に続くかのように思えました。

参謀本部の高嶋戦争指導班長は、日記に次のように記しています。
「五月二〇日(金)晴……戦況、徐州陥落。市内は旭旗を掲ぐ。しかしわれらの前途感は悲観的の一語に尽く。」

徐州を占領しても、泥沼化する日中戦争の出口はまったく見えなかったのです。

その4.黄河決壊事件の悲劇

日本軍は一部を徐州から西進して河南省に進めようとしました。そのとき起きたのが、黄河の堤防決壊です。

日本軍の侵攻を阻むために、蒋介石は6月7日に黄河河南省の堤防を爆破、さらに9日には鄭州(ていしゅう)にある堤防を爆破しました。

折からの雨期に増水していた大黄河の濁流は奔流となって氾濫(はんらん)し、河南の大沃野(だいよくや)は一瞬にして濁水(だくすい)のなかに沈みました。

これにより11の都市と4千の村が水没し、水死者は89万人(100万人説もあり)に達しています。中国における人民の命が軽いのは、当時も変わりがないようです。堤防の決壊は3省の農作物と農地を破壊しました。

このため、1942(昭和17)年に河南省は旱魃(かんばつ)による大飢饉に襲われ、300万人の死者が出ています。その惨状を見たアメリカ人記者は「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉(しにく)を食べていた」と記しています。

中国国民党は黄河決壊事件は、日本軍の空爆によるものだと発表し、「日本軍の暴挙」として非難しました。これも南京事件に次ぐ、中国が仕掛けた明らかなプロバガンダです。

堤防の影に避難している中国軍を日本軍が砲撃および爆撃した際に堤防が爆破されたと中国側は説明しましたが、後に日本軍によって意図的に爆破されたと見解を改めました。また中国は、洪水の被害を受けた地区から避難している民衆を日本軍が機関銃で銃撃していると訴え、日本軍による攻撃が救助活動を妨害していると非難しています。

では、実際はどうであったのかといえば、真実はまったく逆でした。日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともにすぐに救助活動を行っています。被害を食い止めるために氾濫した水を別の地域に誘導するべく、堤防と河道を築く作業も行いました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
日本軍に救出された避難民【『支那事変画報』33号、「皇軍の慈愛/宣撫班員の活動」より(毎日新聞社、昭和13年7月11日発行)】

対して中国軍は、救助活動に駆けつけた日本軍を攻撃しました。そのなかでも日本軍は必死に救助活動を続け、氾濫した地区に航空機から麻袋をパラシュートにより投下し、住民とともに土嚢(どのう)を積み上げる防水作業を行っています。その際も中国軍遊撃隊は防水作業中の日本軍と住民に対し、無差別に射撃を行いました。

中国側のプロバガンダは、こうした事実を真逆に報道するものでした。しかし、海外のメディアは冷静に対処し、黄河決壊事件は中国軍による自作自演であると、事実を報じています。

後に蒋介石は自伝にて、黄河を決壊させたのは「まさに断腸の思い」ではあったものの、日本軍の侵攻を食い止めるためには必要な策だったと述べています。

蒋介石が行った黄河決壊事件の場所

日中戦争
https://hinode.8718.jp/yellow_river_incident.html より引用
洪水の被害面積は、日本の九州と四国を合わせた面積に匹敵すると言われている。

蒋介石は黄河決壊により日本軍に直接ダメージを与えようと謀ったとされていますが、洪水に巻き込まれて死亡した兵士は数えるほどに過ぎず、中国人を救助しようとした際に中国軍に射撃されたことで死者が出た程度です。

たしかに黄河決壊により、日本軍は一時だけ足止めされました。しかし、進路を変更することで10月26日には武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮を占領しています。わずか数ヶ月の足止めのために数十万にのぼる中国人農民が犠牲になったことは、悲劇としか言いようがありません。

黄河決壊事件は、日本の教科書にはほとんど載っていません。南京事件ばかりが強調されるなか、日本軍が命をかけて中国人を洪水から救ったことは、ほとんど忘れ去られています。

日本軍を足止めするために、その後も蒋介石による堤防の決壊は繰り返されました。6月23日には揚子江両岸の馬華堤が爆破され、9月23日にも武穴鎮の下流において揚子江が決壊しています。当時の工兵参謀の告白によると、決壊作戦は失敗を含めて12回行われていたことが『抗戦江河堀口秘史』で明らかにされています。その度に中国人農民の多くの命が、濁流のなかに消えていったのです。

決壊とは異なりますが、中国軍が日本軍の進撃を阻むために多くの中国人の命を奪った例として、「長沙焚城(ふんじょう)」があります。

日中戦争
https://read01.com/gQM4Qd.html#.W7goCGgzb8A より引用
長沙は広島・長崎・スターリングラードと共に、第二次世界大戦の4つの最も深刻な被害を受けた都市の1つに挙げられている。

「長沙が陥落したら全城を焼き払え」との蒋介石の命令に従い、1938(昭和13)年11月12日に湖南省の長沙城が放火された事件です。これにより死者数20万人を数えたとされています。長沙に残されていた紀元前にまで遡る歴史的な文物も、そのほとんどが失われました。

日本軍に物資を渡さないための焦土作戦は、中国全土にわたって展開されました。その度に多くの中国人の命と財産が失われたのです。

少なくとも国民党政府に殺された中国人の数は、日中戦争で日本軍の犠牲になった数をはるかに上回ります。

その5.中国軍はなぜ弱かったのか

- 死傷者数の差はなにが原因なのか ー

日中戦争
https://nihonmasamasa.militaryblog.jp/e189370.html より引用
国民党軍より鹵獲(ろかく)した軽機関銃を持って行進する陸軍兵士たち

日本軍から無事に逃げ切るために黄河や揚子江の堤防を決壊させるなど、日中戦争を通じて中国軍の弱さは際立っています。

数十万の日本兵に対して、中国軍は数百万の兵力を誇っていました。その兵力はおよそ10倍です。ところが、日本軍と中国軍がまともにぶつかり合うと、そのほとんどで日本軍が圧勝を収めています。

日本軍がもっとも苦戦したのは1937(昭和12)年8月の上海での戦闘でした。上海戦に投入された中国軍はドイツ製の最新式武器と装備を誇り、日本軍と比べてもけして劣りません。ドイツから派遣された軍人の指導の下で鍛えられた精鋭軍であったことに加え、トーチカによって砦を築くなど、地の利も十分に有していました。

そのため、日本軍は上海戦だけで4万人前後の死傷者を出しています。しかし、実は中国軍の被害はもっと大きく、死傷者は30万人を超えたとされています。

日中戦争を通じて各戦闘ごとの中国軍の死傷率は、日本軍の十倍前後に達しています。死傷率の差こそが、日本軍の快進撃を支えた最大の理由です。

では、なぜ死傷者の数において両軍の間に、これほどまでの大きな差が生じたのでしょうか?

その原因は、兵士の士気と教育・訓練の差にあったと言われています。中国兵の大半を占めたのは農民です。中国人の農民たちはそもそも、なぜ日本軍と戦っているのか、その理由さえわかっていませんでした。

訳がわからないままにいきなり戦場に連れてこられ、身を守る術などなにひとつ教わらないままに銃をもたされ、最前線へと投入されたのです。

元を正せば徴兵の仕組みからして、理不尽なものでした。

- 中国の徴兵の実態 ー

国民を総動員して戦うのが近代における戦争です。ところが日中戦争当時の中国には、そのような体制自体が存在していませんでした。

中国の徴兵制は極めて不公平に行われていました。中国では都市部に暮らす市民と農村部に暮らす農民との間に、大きな差別があったのです。

国民政府は市民には寛大でした。政府機関の職員や教師、大学生や工場の労働者は、兵役を免除されました。さらに富裕層は金を出すことで兵役を免除されました。

結局のところ出征して戦ったのは、貧しい農民たちばかりです。徴兵の実態については、アメリカ人のグラハム・ペックが『アメリカ人の見た旧中国』のなかで具体的に語っています。

「中国には徴兵制度があるが、徴兵の方法は簡単で無情である。中国の徴兵には、整理番号も体格検査も、法律に基づいた徴兵免除も無い。重慶政府(重慶に首都を移した国民政府)が何人の兵士を必要とするかを決定すると、直ちに各省に供出人数が指令される。これを受けて各省は、各県と各郷に対して供出人数を指令する。こうして徴兵が開始される。ある地域では、まだ比較的公平である。

しかし全体から言えば、徴兵工作の腐敗汚職は筆舌に尽くしがたい。金持ちは、絶対に戦争に参加する必要はない。各地の官吏が公開の価格を作って、徴兵免除証明を金持ちに売るのである。金を集められれば、農民でも賄賂を使って兵役を逃れることができる。

 かくして最終的に徴兵されるのは、極貧で家を離れられない人間ということになる。もしある地区の徴兵人数が必要数に満たないと、通行人を拉致(らち)するか、人買い組織から壮丁を買い入れて充足する。徴兵の過程で、ある者は殺され、ある者は傷を負わされ、多くが部隊の駐屯地にたどり着くまでに餓死してしまう。……

 路上や徴兵の過程で死んだり、野蛮な新兵訓練処や長い行進の途中で死んだりする人間の数が、軍隊に入る人間の数より多いのである」

日中戦争の「不都合な真実」戦争を望んだ中国 望まなかった日本』北村稔・林思雲著(PHP研究所)より引用

腐敗や汚職によって徴兵制がまともに機能していないため、強制的に拉致されて無理やり徴兵された農民が多くいたことは、さまざまな資料が物語っています。

- 徴兵がもたらした悲劇 ー

日中戦争
http://footage.framepool.com/ja/shot/ より引用
万里の長城を進む中国軍。多くの兵士は無理やり戦場に連行されて来た農民だった。

強制的に徴兵された農民たちは、隙を見ては逃げようとしました。そのため、徴兵した農民たちを戦場に送り届ける側にしても必死です。軍管区で官職に就いていた張登上は『国民党兵役視察目撃記』のなかで次のように綴っています。

「壮丁を送る部隊というのは、犯人を護送する軍警(武装警察)のようなものであった。壮丁の大多数は、脅迫されたり、陥れられたり、騙(だま)されたりした者たちである。彼らは護送の途中では常に一本の太い縄で数珠つなぎにされており、兵士たちは着剣した銃に弾を込め、大敵を前にしたように隊列の前後左右を固め、虎視眈々(こしたんたん)と護送したのである」

まるで囚人のように戦場に運ばれた農民たちが数多くいました。食糧も水も満足に与えられなかったため、農民たちの多くは戦場に送られる前に死んでいったと記録されています。

クリストファー・ソーン著『普及版 太平洋戦争とは何だったのか』(草思社)では、次のように記述されています。

「国民政府軍の徴集兵の多くは、戦時下の中国の都市で逃亡を防ぐためにしばしば数珠つなぎにされ、指定の部隊に到着する前に死んでしまった。他の者も、その多くが初歩的な医療さえ受けられず、食糧も悪徳上官に奪われ、放置されたまま死んでいった」

「1943年には徴集兵の44パーセントが、指定の部隊に到着する前に死ぬか逃亡した。そして戦争中、原因不明の失踪者は800万人を超えた」

中国赤十字の会長であった夢麟は各地の負傷兵を視察した際、拉致された若者たちの悲惨な境遇を目の当たりにして憤りを感じ、蒋介石に視察報告を送りつけています。

その報告書には、ほとんどの若者が日本軍と戦う前線に到着する前に、運ばれる途中で死んでいることが赤裸々に綴られていました。

こんなエピソードが残っています。貴陽にあった壮丁収容所にて夢麟は、広東の曲江から来たという若者から「曲江から出発した当初は700人の仲間がいたのに、今では17人しか残っていない」と聞かされました。

逃亡兵がいるのかと思い問いただした夢麟に対し、若者は答えています。

「誰も逃げてはいない。逃げたってどこにも生き場所なんてない。途中はどこもかしこも荒れ果てており、食べる物もなく、飲む水さえない。ここ(収容所)に来るまで食料はまったく用意されていなかった。食べ物があるところでは食べ、ないところでは飢えを待つだけだった。それでも歩かなければならなかった。多くのところでは、水を飲むと腹を下した。腹を下しても病気になっても薬はなく、それで大部分の人間は途中で死んだ」

徴兵されていた時点では700人いた貧農の若者たちが戦地に着くまでには死に絶え、着いたときには17人に減っていたというのです。さすがにこれは特殊なケースでしょうが、徴兵の途中で多くの若者たちの命が失われたことはたしかです。

一説によると徴兵の途中で死亡した壮丁の数は数百万以上に上り、戦場で死亡した兵士の数を大幅に上回ると見積もられています。

夢麟の報告を読んだ蒋介石は大いに驚き、「人として面目を無くす思いであり、我等の民衆に対して申し訳なく思う」と語ったと共産党の資料には記されています。

中国から出ている多くの資料は、国民党を貶(おとし)めるために共産党による補正がかかっていると思われますが、嫌がる農民を無理やり戦地に送り、その途上で多くの死者が出たことは疑いようがありません。

- 農民兵の実態 ー

日中戦争
https://chinesemartialstudies.com/2014/09/22/ より引用
1938年、槍で武装した広州市外の中国人地方民兵

こうして兵として戦地に投入された農民たちの士気が、高いはずもありません。兵の士気の違いは、戦局を左右するほど大きな意味をもっています。

士気以上に大きかったのは、兵の教育と訓練がほとんど為されていなかったことです。中国では大衆を指導するエリートを重視し、民衆を軽視する愚民思想が伝統的に維持されています。

「将は智を貴び、兵は愚を貴ぶ」という諺(ことわざ)があるぐらいです。その意味は、最良の軍隊は知恵のある将官と愚かな兵士で成り立っている、という考え方です。
愚かな兵ほど良いとされるのは、余計なことは考えずに無条件で指揮に服従するからです。

しかし近代戦では複雑な兵器を用いるとともに、兵同士が連携して行動することが求められるため、愚かな兵では役に立ちません。とはいえ識字率が10%程度にしか過ぎない農民に教育・訓練を施すことは骨が折れるため、昔ながらの愚兵主義の軍隊が相変わらず維持されたのです。

農民たちは戦場に駆り出されてから、はじめて銃の撃ち方を習いました。初歩的な軍事訓練さえ受けていない悲惨さを、共産党軍である八路軍の師団長であった林彪は、『平型関戦闘的経験』にて綴っています。

日中戦争
wikipedia:林彪 より引用
林彪(りん ぴょう、リン・ビャオ)1907年 - 1971年
中国の軍人・政治家。第4軍の将校として北伐に参加し、井崗山で毛沢東・朱徳らのもとで紅軍を創設。日中戦争が始まると八路軍第 115師長として平型関で日本軍の板垣師団を撃破した。以後軍の要職を歴任し、国防部長に就任。文化大革命で運動の先頭に立ち、毛沢東の後継者に指名された。

しかし、修正主義的な内容の政治報告が毛沢東らの党中央によって否定されたことから、毛沢東を殺害しようとする武装クーデターを計画するも失敗。飛行機でソ連へ逃亡の途中、墜落死した。

それによると、戦闘に際して日本兵が地面に身体を横たえ、匍匐(ほふく)の姿勢で射撃しながら散開して前進するのに対して、訓練を受けていない中国兵の多くは立ったままか、あるいはしゃがんだ姿勢で射撃し、ひとかたまりとなって前進するため、たやすく銃弾に倒れたと記されています。

日本の飛行機が爆弾を投下しても、どうしてよいかわからず、身を隠すことも伏せようともせずに吹き飛ばされたと、綴っている回顧録もあります。

孔子は論語にて「教えざる民を以て戦うのは、民を棄てると謂(い)う」と述べていますが、まさに当時の中国軍はこれに当てはまります。

あまりにも無知であることも、貧農出身の兵を悩ませました。そもそも日本軍が外国の軍隊であることをわかっていない兵も多かったとも記されています。日本軍は中国のどこかの軍閥の軍隊だろう、と思う兵もいたとのことです。

日本軍が中国語を理解しないことさえ、わかっていない兵もいました。「助けてくれ」と叫びながら飛び出しても、日本軍には中国語はわかりません。銃を捨ててなければ狙撃されるのは当たり前のことでした。

南京事件を含め、日本の軍人による殺害や暴行の現場に居合わせた目撃者のなかには、日本人が中国語を堪能にしゃべっていたとの証言が多く見受けられますが、こうした怪しい証言が為されたのも日本人のほとんどが中国語を話せないという事実を失念しているせいかもしれません。

- 市民と農民の差 ー

日中戦争
https://commons.wikimedia.org/wiki/ より引用
日中戦争での中国兵

基本的な知識さえない農民たちには、なぜ日本軍と戦わなければいけないのか、わかるはずもありません。

反日抗争は中国の国是とも言えるほどに高まりましたが、それはもっぱら都市圏の市民に共有されていたナショナリズムです。日本製品の排斥(はいせき)運動にしても、中国の農民たちにとってはなんの関係もないことでした。そもそも日本製品など見たこともない農民たちが、排斥などできるはずもありません。

もともと中国の農民たちは自分たちの暮らしが守られるのであれば、誰が政治を行おうと無関心です。中国が歴史的に少数に過ぎない他民族の支配を容易く受け入れたのも、中国の人口のほとんどを占める農民たちがそれを受け入れたからこそです。

このときの中国の農民たちは、まだナショナリズムに目覚めていませんでした。日本との戦争を熱烈に支持したのは、市民に限られていたのです。

その市民たちは徴兵にとられることもなく、日本軍に都市が占領されると、従順にその支配下に収まりました。憎き日本人に占領されているという屈辱を除けば、市民の暮らしぶりは平時とさほど変わらなかったことが、その当時書かれた多くの小説などから読み取れます。

対して農民は悲惨でした。望みもしていなかった日本軍との戦争に駆り出され、訳がわからないまま銃を手に戦地に放り込まれ、次々と銃弾に倒れていきました。

訓練を受けた軍隊であれば、一角を切り崩されても持ちこたえ反撃できますが、素人同然の中国兵は一角が崩れればパニックに陥り、一斉に逃げ出しました。

すぐに逃げ出す兵があまりにも多いため、中国では戦闘ごとに督戦(とくせん)隊が組まれました。督戦隊とは、自軍を後方より監視し、自軍の兵士が命令なしに勝手に戦闘から退却した際に銃撃を加え、無理やり戦闘への復帰を促す任務をもった部隊のことです。

日中戦争
ウィキペディア より引用
中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲されたもの。督戦隊は南京戦を含め各地の戦闘で配置されていた。

このため、逃げ出す中国兵と督戦隊の間で同士討ちになることも度々ありました。督戦隊に銃殺される中国兵も数多くいたことが様々な資料に残されています。

日本側の戦記や手記にも、まだ少年にしか思えない兵が背後から中国軍による銃撃を受け、泣きながら突撃してきたとの報告が寄せられています。

南京事件の際、揚子江沖で多くの中国兵の遺体が確認されていますが、そのなかには督戦隊に銃殺された中国兵もかなりの数混じっていたとの証言もあります。

また兵が逃げられないように、塹壕(ざんごう)などに鉄の鎖で縛り付けて無理やり死守させることも度々行われました。日本軍では考えられない残虐さです。そうした遺体は日本兵の涙を誘ったと伝えられています。南京陥落の際にも、鎖で縛り付けられた中国兵が確認されています。その大半は農民兵でした。

市民に比べて農民の置かれた環境は、はるかに過酷であったと言えそうです。

その6.戦争方針の転換

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用

武漢三鎮の陥落を伝える1938年10月27日付『東京朝日新聞』

上海戦では手間取ったものの、その他の地域においては日本軍は破竹の勢いで進軍を続け、盧溝橋事件から1年半後には広東と武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮を攻略し、中国の主要都市のほとんどを占領しました。

しかし、戦争が終わる気配はまったくありませんでした。このとき、国民党は経済的に未開発の西南地区に退却し、共産党は貧しい陝北(せんほく)地区に留まっています。南京から重慶に首都を遷した蒋介石ら国民党軍が寄せる抗日の機運は衰えることなく、ますます燃え上がっていました。

中国の経済動脈をすべて抑えたにもかかわらず、国民党軍が屈服する姿勢をまったく見せないことは、軍部の主導権を握った拡大派にとっての大誤算でした。この時点で軍事力によって国民政府を屈服させる見通しは、ほとんどなくなったといえる状況に陥ったのです。

もはや陸軍の動員数にしても限界に達していました。1938(昭和13)年7月末時点で陸軍全34個師団のうち、華北に9個師団、華中に14個師団が派遣されています。他は満州・朝鮮に9個師団、本土に2個師団を残すのみでした。中国大陸に派遣された兵はピーク時でおよそ100万です。

とはいえ100万近い兵力を国民党や共産党の壊滅のために積極的に動かせるわけではありません。兵力のほとんどを占領地域の治安維持のために配置する必要があったからです。

漢口・広州を占領してからは、積極的に他地域を攻撃できる軍は、漢口付近に拠点を置く第11軍のみでした。その兵力は7個師団、約20万です。

もっとも新たな地区を攻略しても、そこに第11軍がずっと居座るわけにはいきません。治安維持を続けるために漢口に戻らざるを得ず、日本軍が去ったあとには中国軍が再び帰ってきて、支配を続けることが繰り返されました。これではイタチの追いかけっこです。

広大な中国を実質的に占領するには、日本軍の兵力ではとても足りなかったのです。

兵器や装備にしても、もはや需要に対して供給が追いついていませんでした。国内の工業生産力をはるかに超えていたからです。国内では国民から鉄製品をはじめとする金属類の供出が行われていましたが、それでも足りませんでした。

結局のところ、日中戦争は石原が予測した通りの展開をたどったのです。石原は日本の国力では広大な中国を軍事的に屈服させることはできないと何度も訴え、日中戦争に反対し、戦争に至ってからはなんとか早期に講和を結ぼうと画策しました。

それを妨害し、中国をたやすく一撃でこらしめることができると主張したのが拡大派です。近衛首相も拡大派の言を信じ、宗旨(しゅうし)替えをして早期講和の道を自ら閉ざしてしまいました。

その結果として、出口のまったく見えない泥沼の長期戦争へと日本を導いたのです。

1938(昭和13)年12月初旬、手詰まりに陥った陸軍中央は新たな戦争指導方針を決定しました。今後は占領地の治安維持を最優先し、その地域での治安回復と残存抗日勢力の取り締まりを重点的に行うこと、新たな占領地の拡大は行わず、中国軍の攻撃に対しては反撃するものの不用意な戦域の拡大は避けることが、発表されました。

この方針は日中戦争が終わるまで維持されました。これ以降、日本軍は重慶など内陸部における軍事上の拠点や蒋介石政権への援助物資補給ルートである援蔣ルートの遮断(しゃだん)を目的とした波状的な空爆へと、戦略を移しました。

そのため、実際に日中両軍が激しく戦うことはほとんどなくなりました。日本軍は1939年には江西省の南昌や湖南省の東部にも進出していますが、国民党軍は積極的には姿を見せない韜晦(とうかい)戦術をとったため、日本軍が攻めなければ国民党軍も攻めて来ないという睨(にら)み合いが続きました。

日中戦争は出口が見えないまま、膠着(こうちゃく)状態に陥ったのです。

その7.日本の占領がもたらしたもの

ー 日本軍による占領の実態 ー

日中戦争
日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館 より引用
日中戦争期(1937~1940年)の中国における日本の占領範囲

中国で公表されている統計によると、日本軍は日中戦争を通して26の省と1500以上の県に侵入しています。勢力圏の総面積は600万平方キロメートルにわたり、中国全土の三分の二を占めていたとされています。

しかし、実際に日本が占領していたのは、満州を含めて275万平方キロメートルに過ぎなかったと、章伯鋒の『抗日戦争』に記されています。

100万にも満たない兵力で占領するには、中国はあまりにも広大すぎました。実際のところ、日本軍が本当に支配していたのは孤島のように点在する都市と主要な港や鉄道・道路などの交通上の拠点だけでした。

つまり、日本軍の占領は点と線に限られ、広大な面は手付かずだったのです。それが日本軍による中国占領の実態でした。

ー 食糧を現地調達するには?ー

都市の占領といっても市民こそが抗日の主体であったため、その支配は困難を極めたように思えますが、実際は穏やかでした。市民の暮らしぶりは日本軍による占領の前後でさほど変わりなく保たれたため、組織的な抗日の動きもなく、市内は平時と変わらない平和に包まれていました。

占領中でも市民の多くが観劇などに興じたことが、当時の生活を物語る数々の資料に記されています。

変わったのは市内ではなく農村です。日本軍が占領地で苦労したのは食糧の調達でした。日本軍は食糧を常時、現地調達に頼っていました。日本内地も食糧不足が深刻であったため、とても中国に送る余裕などなかったためです。

駐屯を続ける日本軍の食糧をまかなうだけでも大変でしたが、さらに日本軍には占領下の都市の住民を飢え死にさせない義務がありました。

日中戦争
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/gunsei1.htm より引用
日中戦争中の主な軍と政府の場所を表す地図

食糧を供給できずに市民が飢えることになれば、組織的な抗日闘争が行われる危険も増します。市民を満足させるだけの食糧を調達することは、占領政策における最重要課題でした。

日本軍と市民のための食糧を現地調達するためには、農民から食糧の提供を受けるよりありません。その際の手段はふたつです。ひとつは徴税を通して平和的に徴収すること、もうひとつは武力を背景に農民から半ば強制的に取り上げることです。

徴税を行うのは市や県などの地方政府です。地方政府には農民から徴税を行うための仕組みがすでに整っています。ところが日本軍は、地方行政を破壊して新たな親日政府を樹立するという戦争方針を掲げていました。国民党に忠誠を誓う地方政府そのものを抗日と見なし、排除しようとしたためです。

満州にしても華北に打ち立てた冀東防共自治政府にしても、その図式で樹立されたものです。

しかし、破壊は一瞬で済みますが、新たな地方政府を樹立しようと思っても簡単なことではありません。既存の地方政府の崩壊とともに失われた農民からの徴税システムは、すぐに復旧できませんでした。

そのため日本軍は多くの占領地域において、農民から平和的に徴税する方法を採れませんでした。武力をちらつかせ、農民から農作物を強制的に取り上げるよりない状況に自らを追い込んでしまったのです。

農民から食糧を調達する際、金銭を対価として払うなど平和的な手段を用いることは、ほとんどの場合できませんでした。

日本が占領していたのは中国の主要都市と交通上の拠点のみであり、広大な農村を支配していたのは国民党や共産党軍だったからです。

日本軍が食糧調達のために農村に出向けば、中国軍は姿を消します。しかし、日本軍が立ち去れば彼らは舞い戻ってきます。その際、日本軍に食糧を渡した者がいれば、売国奴として処刑されることが一般的でした。

そのような状況下で日本軍に素直に食糧を渡す農民がいるはずもありません。中国軍の報復を恐れた農民たちは、日本軍が村に来るとわかれば食糧を隠し、山に逃げ込みました。そのため、日本軍による食糧調達は略奪にならざるを得ませんでした。

略奪の過程で農民とトラブルになったことも当然あったと思われます。日本軍による中国農民の殺害があったことも否定できない事実でしょう。

食糧が供給されたことで市民は喜びましたが、農村はたまったものではありません。日本軍の進出によって、農民の暮らしは大きな悪影響を受けることになったのです。

日中戦争前までの中国では激しい内戦が繰り広げられていました。されども中国の農民の暮らしは、内戦とは無縁でした。内戦により都市の支配者が変わろうとも、地方行政そのものは維持されたからです。農民から徴税を行う職員が代わるわけでもなく、支配者が変わろうとも徴税システムは生き続けました。地方政府に手を付けないことは、軍閥同士が争った際の暗黙のルールでした。

軍閥が農民から食糧を略奪することもありましたが、その量は高が知れています。自分たちが食べる分の食糧を確保すれば事足りるからです。

国民党にしても共産党にしても事情は同じです。戦うためには食糧を現地調達する必要がありますが、兵の空腹を満たせばよいだけのため、量はわずかで済みます。

ところが日本軍は占領地の市民の分まで農民から調達するよりなく、その量は国民党や共産党とは比較にならないほど多くならざるを得ません。農民の不満が日本軍に集中したのは、やむを得ないことでした。

ー 日本軍が追い詰めた華北の農民たち ー

日中戦争
http://japanese.china.org.cn/politics/ より引用
抗日戦争に参加した中国農民と子ども。日本軍による食糧の調達は、多くの中国人農民を共産党側に追いやった。

ことに悲惨だったのは華北の農民です。中国では気候上の理由から、農作物が豊かなのは南方に偏っていました。中国の食糧供給地は南方に集中しており、南方の農村には食糧が余っていました。

対照的に華北は慢性的に食糧が不足しており、大運河を用いて南方から食糧を輸送することで生活が成り立っていたのです。しかし、日中戦争によって食糧の運送体系が破壊されたことで、華北には深刻な食糧不足が発生していました。

華北の農民には余っている食糧など、ほとんどありません。そこへ日本軍がやって来て食糧を持ち去っていったのです。日本軍としては華北の都市の住民を飢えさせないために食糧がどうしても必要でした。

しかし、日本軍が持ち去っていった食糧は、華北の農民たちが命を繋ぐために必要なものでした。食糧がなければ飢え死にするよりありません。彼らにも家族があります。まだ幼い子供たちを飢え死にさせないためには、食糧をどこかで調達してくるよりありません。

こうして多くの農民たちが匪賊となり、他の部落の農民を襲い、食糧を奪いました。地方政府が崩壊しているため、農村は無法地帯と化していたのです。都市の治安は日本軍によって守られていましたが、農村までは手が回りません。食糧をめぐる骨肉の争いが、華北の農民たちの暮らしを徹底的に破壊しました。

その怒りが日本軍による食糧徴発に向かうのは当然だったと言えるでしょう。これまで政治に無関心だった農民たちは日本軍に激しい憎悪を募らせました。それは、農民たちが生まれて初めてナショナリズムに目覚めた瞬間でもありました。

ー 毛沢東が感謝した日本軍 ー

日中戦争
ウィキペディア より引用
青天白日の軍旗を持った中国共産党八路軍の兵士たち

華北の農民の間に生まれた対日憎悪とナショナリズムに巧妙に浸透していったのは中国共産党です。日本軍への反感を利用して、共産党は華北の農民の民心をつかみました。共産党の勢力は華北で爆発的に発展したのです。

1961(昭和36)年、中国を訪れた社会党議員に対して毛沢東は次のように語っています。

「日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。
そしてわれわれは、いまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。

日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地を作って、その後の解放戦争(日本降伏後の国共内戦)において勝利するための条件をつくりだしました。日本の独占資本や軍閥は《よいこと》をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです」

〔一九六一年の「黒田寿男社会党議員等に対する談話」(日本外務省アジア局中国課監修『日中関係基本資料集1949‐1969』、霞山会、一九七〇年)〕

日中戦争の「不都合な真実」戦争を望んだ中国 望まなかった日本』北村稔・林思雲著(PHP研究所)より引用

農村を犠牲にした日本の占領政策がもたらしたもの、それは中国共産党の勢力拡大でした。日本軍による食糧徴発が、農民を共産党へと押しやる結果となったのです。

もともと日本が満州を建国し、華北へと侵入したのは防共のためでした。ところが結果的に共産党の勢力拡大を招き、毛沢東に感謝までされるとは皮肉以外のなにものでもありません。

日中戦争
wikipedia:毛沢東 より引用
毛沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン)1893年 - 1976年
中国の政治家・思想家。中国共産党創立に参加。農村から都市を包囲する戦略で党と紅軍の指導権をにぎる。江西省瑞金において中華ソビエト共和国臨時政府を樹立。長征を開始、革命根拠地を陝西省に移動。日中戦争では国共合作を成し遂げ、抗日戦を指導。戦後は蒋介石の国民党軍を破り、中華人民共和国を建国、初代国家主席となる。

党・国家の官僚化を批判して中国文化大革命を発動。全国的に過激な運動を展開した。多くの犠牲者を生んだこの運動は、毛の死後に完全な誤りであったと認められた。文化大革命によって、世界で最も多くの人間を殺した独裁者として名前が挙げられることが多い。

天安門事件の発生により鄧小平の解任と華国鋒の総理就任を提案した後、84歳にて死去。

もとより日中戦争が起きさえしなければ、国民党軍が共産党軍を壊滅させていたはずです。最後の5分間から奇跡的な復活を遂げ、日本軍の行動を逆手にとることで共産党は中国の農村部に次々と軍事拠点を築いていきました。

1937(昭和12)年の時点で共産党軍は5万人ほどでした。ところが1945(昭和20)年には120万の軍隊と260万を超える民兵を組織するまでに肥大化しています。

中国の9割を占める農民の支持がなければ、今日の中国共産党はありません。そして、その共産党を巨大化させたのは日本軍であったことは、拭いようのない事実です。

日中戦争を含めた大東亜戦争において、もっとも大きな漁夫の利にあやかったのは中国共産党でした。

日中戦争
https://www.huffingtonpost.jp/2016/05/28/ より引用
40万人から1000万人以上が殺されたとされる文化大革命時代の毛沢東を称えるプロパガンダ用ポスター。このポスターには「世界革命人民の中心、赤い太陽の毛主席 万歳!」と書かれている。

大東亜戦争後、中国共産党は中国支配の過程でおよそ6500万人の人民を死に至らしめたとされています。日中戦争によって中国共産党の勢力が拡大していなければ、そのような悲劇は起きなかったことでしょう。その意味では責任の一端は、日本軍にあると言えるかもしれません。

その8.河南省の農民はなぜ日本軍に味方したのか

ー 占領の光と陰 ー

中国共産党のキャンペーンの成果もあり、日中戦争において日本軍は多くの中国人を虐殺し、略奪を繰り返したとされています。

その背景には、日本軍が食糧を現地調達しなければいけなかったという切羽詰まった事情が横たわっています。

しかし、負の面ばかりではなかったことも事実です。華北にしても、自給自足ができない華北の悲惨な農業を変えるために、農業技術の近代化に取り組んでいます。日本の占領した地域では農業技術が向上し、農村組織が整備され、多角経営や植林などの治山治水が行われ、食糧自給のための体制が着々と進められました。

疫病が急速に消えていったことも日本の占領地域に共通して見られる現象です。北京や南京など各地に施療防疫班を設置し、防疫事業に大々的に取り組んだ成果です。学校・文化事業や医療衛生に至るまでの建設事業も行っています。

南京事件をはじめとして残虐な面ばかりが強調される日本軍ですが、そうしたイメージを覆す事実もあります。

たとえば、教科書にはけして載りませんが河南省の農民たちと日本軍との関わりにおいて、日本軍は侵略ではなく解放軍としての役割さえ果たしています。

ー 河南省を襲った大飢饉 ー

日中戦争の最中であった1942(昭和17)年春から1943(昭和18)年秋にかけて、河南省では旱魃とイナゴによる自然災害が発生し、これにより大飢饉に襲われました。この飢饉は単なる天災ではありません。4年前に国民党によって引き起こされた黄河決壊事件によって自然環境が破壊されたことが、災害を招いた大きな原因です。

飢饉のために省の全人口の十分の一に当たる300万人が餓死、あるいは病死し、被災によって流浪者となった者も300万人を数えました。流浪の途中で餓死・病死した人たちも数多くいます。

災害によって河南省の人々が大飢饉に苦しんでいることは蒋介石にも知らされました。しかし、蒋はこれを偽りの報告と決めつけ、なんら救済のための手段を講じないばかりか、河南省の徴税項目や分担金などで緩和や免除を絶対に許さないと厳しく命じたのです。

その背景には中国に蔓延(まんえん)する汚職の問題がありました。中国の官僚は度々嘘をつき、集めた税金を着服する者が後を絶ちませんでした。今回も偽りに違いないと、蒋は勝手に決めつけたようです。

『大公報』の記者が河南省が飢饉に襲われていることを、わずか6千字ほどを割いて報じた際にも蒋は激怒し、『大公報』を三日間停刊させるとともに報道に関わった記者たちを処分しています。

状況は絶望的でした。郭仲隗は『一九四二 河南大飢荒』において次のように綴っています。

「一九四二年、私は続いて第三回国民参政員になった。この年は河南で大旱魃が起こり、ごくわずかな水田以外は、一粒の収穫もなかった。しかし、中央は災害の報告を受けとらず、救済も行わなかった。私は参政員の立場で駆け回り、様々に呼びかけたりして全力を尽くした。しかし、結果として河南省では五〇〇万人余りの餓死者を出した。ところが、河南省主席の李培基は一六〇二人しか報告しなかった。政治において未曾有の奇観であった。」

「人間の条件1942(温故一九四二)」を読むために より引用

国の援助を一切受けられなかった河南省の住民たちの陥った境遇は、悲惨の一語に尽きました。飢饉の最中においても蒋の命令に従い、徴税の収集は情け容赦なく行われました。残り少ない食糧を兵士に奪われ、最後の命綱だったわずかな備蓄さえも徴税として役人にもっていかれ、河南省の人々は口にできるものをすべてはぎ取られたのです。

やむなく人々は木の皮をはぎ、根を掘り起こしては食べました。泥をすすりながら、かろうじて命を繋ごうと抗いましたが、多くの住民は次々と餓死していきました。

婦女子を売る親も相次ぎました。人買いは足下を見て、通常の十分の一の価格でしか応じません。人々は人肉にさえ手を出しました。そのために子供を交換し合う親さえいたと伝えられています。

ー 国から見捨てられるということ ー

あまりの惨状を目の前にして動いたのは英米人の記者や外交官たちです。彼らは孫文夫人の宋慶齢を通じて蒋と会見し、河南省の窮状を訴えました。また彼らは義憤を感じてタイム誌に現地リポートを寄稿し、生き残った飢餓民がわずかな食べ物をめぐって殺し合っていることや子供を食べる親がいるという地獄のような惨状に対して、救いの手を差し伸べない中国政府がいることを告発しました。

日中戦争
wikipedia:宋慶齢 より引用
宋慶齢(そう けいれい)
1893年 - 1981年
中国の婦人政治家。孫文夫人。「宋氏(家)三姉妹」の一人。姉の宋靄齢は孔祥煕夫人、妹の宋美齢は蒋介石夫人、弟は宋子文。 アメリカのウエスリアン女子大学を卒業し、南京臨時政府の臨時大総統孫文の秘書となった。第二革命失敗後、孫らとともに日本に亡命した後、孫と結婚。 孫の死後は国民党左派に属し、国民党の反共化に反対して渡欧。帰国後は国民党中央執行委員となり、蒋介石と対立しながら抗日運動の内部的団結に尽力した。

中華人民共和国が成立すると中央人民政府副主席となり、中国社会主義建設に参加。中華人民共和国副主席を務め、死の直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号を授けられた。

アメリカの世論に突き動かされることで、蒋もようやく重い腰を上げました。救済金として2億元を送っています。しかし、数ヶ月後にようやく河南省にたどり着いたときには、2億元の救済金はわずか8千元しか残っていませんでした。河南省に届くまでの間に、複数の役人が次々に横領したからです。

しかも、そのわずかな8千元とて実際に手にした被災民は、ほんのわずかでした。一部の地方役人は救済金を、被災民が未払いの税金と差し引いたからです。大半の農民は税を払う余裕などないため、結局農民の手許には1元の金さえ入りませんでした。

被災者にとって本当に必要だったのは金ではなく食糧です。陝西(せんせい)省や湖北省には豊富な食料が貯蔵されており、即座に河南省に送り届けることが可能でした。しかし、政府は食糧の供出を拒否しました。

アメリカ人記者が中国軍将校を訪れ、なぜ食糧を放出しないのかと問い詰めた際、将校はこう答えています。
「民衆が死んでも土地は中国人のもの。兵士が死ねば日本人がこの国をわがものとする」

つまり食糧は兵にとって必要なものであり、民衆はいくら死んでも構わないと言っているも同然です。当時の中国では、民衆の命は政治よりも軽かったのです。

蒋介石は国をあげて救済キャンペーンを行っているように装いましたが、実際にはなにひとつ有効な救済の手が伸びなかったため、河南省の人々はばたばたと飢え死にしていきました。

慈善による募金や公演も行われましたが、これらの救済金をはじめに政府に渡さなければいけませんでした。その救済金も省から県へ、県から郷へ、郷から村へと渡っていく過程で次々と奪い取られ、被災者の手元に届くのはほんのわずかに過ぎませんでした。

救援物資が送られても役人たちは様々な名目でこれを搾取したため、被災民に届くのはごくわずかです。救援物資は国際赤十字社や外国人神父・宣教師を通して、被災者に配られました。宣教師たちは度々「日本軍の攻撃を受けて強奪されたために支援物資は届けられない」といった白々しい報告を受けています。

アメリカ人やイタリア人神父・宣教師が献身的に炊き出しや孤児の保護にあたりましたが、規模が小さかったために「焼け石に水」でした。

アメリカは救援物資の輸送を申し出ましたが、政府はこれも拒否しています。救援物資が日本軍や親日派政権に奪われることを恐れたためです。敵を利するリスクを冒すよりも自国民を犠牲にすることを、戦争に勝つために優先したといえるでしょう。

結局のところ、政府による救済キャンペーンは欧米向けのパフォーマンスに過ぎないものでした。河南省では大通りで、野原で、駅のそばで、餓死した人々の遺体が横たわったまま放置されていました。

国から見捨てられた河南省の人々には、もはや絶望しか残されていませんでした。このままではさらに多くの餓死者が出ると思われていた矢先……。

河南省の人々は地獄から生還しました。50年後には中国で二番目に人口が多い省にまで発展を遂げています。

いったい何があったのでしょうか?

ー そのとき、日本軍がやって来た ー

日中戦争
http://news.163.com/photoview/6R2E0001/2212515.html より引用
河南省の村の入り口で日本軍を歓迎する村人

河南省に進軍してきた日本軍は、遺体があちらこちらに横たわる酸鼻極まる絶望の大地を見て驚きました。このときの日本軍が行ったことは、共産党が盛んに宣伝しているような「日本軍が進軍した先々で起こる住民の虐殺や略奪」ではありませんでした。日本軍が真っ先に行ったことは、一人ひとりの兵が携帯していた食糧を、まだ息のある人々に与えることでした。

さらに日本軍は惜しむことなく軍の食糧である軍糧を放出しました。その多くは国民党軍から奪ったものです。河南省の人々が待ち望んでいた食糧を届けたのは、祖国の国民政府でも共産党でもなく、敵であるはずの日本軍でした。

日本軍とて食糧に余裕があるから放出したわけではありません。日本側の資料として河南に従軍した兵たちが激しい飢餓に直面した手記が残されています。このことから最前線の兵に我慢をさせても、餓死に直面した河南省の人々を救おうと貴重な軍糧を放出したことがわかります。

手持ちの食糧が尽きると、日本軍は他の土地から食糧を調達してきては河南省の人々に新たに提供しました。日本軍の放出した食糧により、河南省の多くの人々の命が救われたのです。

河南省の人々は、その恩義を忘れませんでした。1944(昭和19)年4月、日本軍は黄河を渡河して河南に本格的に進攻しました。その際、河南省の農民たちは積極的に日本軍を支援してくれたのです。

三国志で有名な許昌(きょしょう)を死守する中国軍30万と日本軍6万の間で戦闘が起きたとき、河南省の人々は中国軍の情報を日本軍に与えるとともに、すべての農村において武装暴動を起こしました。

農民たちは鍬(くわ)や鎌、猟銃を手にして国民党軍の兵を襲いました。かつて、農民たちに残されていたわずかな食糧さえ兵たちは奪っていきました。そのために農民たちの子供や妻、父母や兄弟姉妹・友人たちは餓死せざるを得ませんでした。その仇を討つために、農民たちは日本軍の動きに合わせて一斉蜂起したのです。農民たちに囲まれて、国民党軍の多くの兵士は武装解除させられました。

はじめのうちは散発的に兵から武器を取り上げるだけでしたが、次第に組織的に行動するようになった農民たちは、中隊ごとに次々と武装解除へと国民党軍を追い詰めていきました。総数ではおよそ5万人の兵が武装解除されたと記されています。

すべての農村で武装暴動が起き、農民たちが日本軍を支援したのでは国民党軍に勝ち目はありません。三週間もかからないうちに、わずか6万の日本軍が30万の中国軍を敗走させ、目標としていたすべてを占領することに成功しました。

国民党軍を指揮していた湯恩伯は二週間で30以上の県を失った責任を逃れるために、「河南の人民はみな漢奸(かんかん)だから殺戮(さつりく)せよ」という標語を張り出しました。「漢奸」とは、漢民族の裏切者・売国奴を意味する言葉です。

日中戦争
wikipedia:湯恩伯 より引用
湯恩伯(とう おんはく)1899年 - 1954年
中華民国の軍人。日本に留学し明治大学で学ぶ。帰国後、国民革命軍の軍人として様々な戦役で活躍、高級指揮官となった。徐州外囲で日本軍を迎撃し、後の台児荘の戦いの勝利に貢献。第1戦区副司令長官兼四省辺区総司令となり、40万の兵力を擁し「中原王」と称された。

しかし拡充した大軍を維持するために河南省の住民から過酷な収奪を展開し、怨嗟や憎悪を被った。日本軍の河南省侵攻の際にはわずか38日で河南省全省を失陥。あまりにも呆気ない戦線崩壊を招いたことで激しい非難を浴び、軍法で処断せよとの声が多く上がったが、蒋介石の庇護を受けたため罪を問われず、解職のみに留められた。その後の国共内戦でも多くの惨敗を喫し、大陸を追われて金門島に拠らざるを得なくなる。

人民解放軍が金門島への上陸を開始すると、蒋介石に金門島放棄の許可を電報で求めたが、蒋は許さず、軍事顧問の根本博を派遣し固守を命じた。根本の活躍で金門島の死守に成功。しかし、金門放棄姿勢が蒋の不興を買い、台湾遷都後は軍指揮権を剥奪された。失意のうちに病気療養のために日本に渡り、そのまま東京にて死去。

日中戦争
図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
中国人の老婆を背負い、安全な場所まで運ぶ日本兵。

河南の人々が祖国の軍を見限り日本軍を支援したことは、中国側から見れば許すことのできない裏切り行為です。しかし、「国家とはなにか」という根源的な問題について考えるとき、河南の人々を非難する資格など中国側にないことも事実です。

国家に見捨てられ死を待つだけだった人々が、彼らを死地から救い出し、圧政から解き放ってくれた日本軍をあたかも解放軍であるかのように迎え入れたことは、人間としてごく自然な感情です。

日中戦争を聖戦であったとはとても言えませんが、一部の地域においては日本軍が解放軍として迎え入れられたという歴史的な事実を、葬り去る必要もないでしょう。

ー 歴史に埋もれた真実 ー

日中戦争
http://news.163.com/photoview/6R2E0001/2212515.html より引用
1938年2月11日、河南省で子供たちにカメラを見せる日本の従軍記者。子供たちは大飢饉から生き残れた。

河南の大飢饉において日本軍が軍糧を放出したことで多くの人命を救ったという事実は、長い間忘れ去られ、歴史の闇に沈んでいました。

それを引き上げたのは現代中国文学を代表する河南出身の作家・劉震雲が『人間の条件1942 ― 誰が中国の飢餓難民を救ったか(原題は温故一九四二)』を、史実に基づいて著したからです。劉震雲は生存者や遺族の証言(口述資料)収集を中心に、中国側の文献資料やアメリカ人記者の残した資料を掘り起こし、そのとき河南の大飢饉で何が起きたのかを克明に綴っています。

日中戦争
劉震雲 より引用
劉震雲(リュウ・チェンユン)1958年 -
中華人民共和国の小説家。河南省延津県の生まれ。中国長編小説を対象とした中国文学界で最も栄誉がある賞の一つである「茅盾文学賞」を受賞。代表作は小説『一句頂一万句』。現職は中国作家協会全国委員会委員、北京市青連委員。政府から中国国家一級作家に認定されている。

『人間の条件1942 ― 誰が中国の飢餓難民を救ったか(原題は温故一九四二)』で日中戦争中の日本軍が河南省の飢餓農民を救ったルポルタージュ小説を著し話題となった。映画化(ただし日本軍の美談にかかわる部分はすべてカットされている)もされている。

敗者の美談は勝者の正当性を失わせるため、表に出ることはほぼありません。英米の記者にしても当時は大東亜戦争を戦っていただけに、敵国である日本を利するような記事を書くはずもありません。

劉震雲は綴っています。

「日本人は中国で甚だしい大罪を犯し、ほしいままに人を殺し、流血は河となった。われわれと彼らとは、共存するわけにはいかなかった。だが、一九四三年冬から一九四四年春までの河南の被災地区においては、この大量殺戮を犯した侵略者が、ぼくの故郷の多くの人々の命を救った。彼らはわれわれに沢山の軍糧を放出してくれた。われわれは皇軍の軍糧を食べて生命を維持し、元気になった。

(略)

あなたたちは、日本軍との戦いのために、共産党との戦いのために、同盟国のために東南アジアでの戦争のために、スティルウェル(連合国となった中国軍に参謀長として派遣されたアメリカの将軍)のために、横暴に税を徴収してわれわれを苦しめた。だから、われわれは向きを変えて、日本軍を支持し、侵略者がわれわれを侵略するのを支持したのだ。

当時、わが故郷の農民や親戚、友人らのなかで、日本軍のために道案内をしたり、日本軍側の前線で後方支援したり、担架を担いだり、さらには軍隊にはいって、日本軍が中国軍の武装解除にゆくのを助けたりした者の数は計り知れない。五十年後、その売国奴を追及するにしても、その数はあまりにも多く、至るところにいる。われわれはみな、売国奴の子孫なのだ。あなたたちはどうやって追及するのだ?」

手厳しい告発ですが、もとより出版が許されたのは、批判はあくまで共産党ではなく国民党政府に向けられていたからです。国民党の非情さを説くことは、共産党の中国支配を正当化します。

それでも反日とは逆行するだけに、日中が融和ムードに包まれたわずかな期間を利用して出版を許されたことは、レアなケースと言えるでしょう。

『人間の条件1942』は映画化もされていますが、当然ながら日本軍の善良なイメージは伝わらないように工夫されています。反日は中国共産党の基本方針です。

日中戦争
映画「1942」のポスター

河南の会戦では洛陽東站(とうたん)付近のトーチカ軍陣地を占領した際、日本側に次のような記録が残っています。
「俘虜(ふりょ)として重慶軍幹部以下1000余名と兵器、弾薬、器材など多数、特に糧秣(りょうまつ)数万俵を鹵獲(ろかく)した。この方面では白米や食塩を陣地の胸墻(きょうしょう=敵の射撃をよけ、味方の射撃の便のために土を胸の高さほどに積み上げたもの)や障害物に利用していたようであった。」

つまり、数万俵の軍糧があったにもかかわらず、餓死する河南の人々にまったく与えられなかったことを意味しています。

障害物として利用できるほどに余っていた食糧を提供することなく、飢餓に苦しむ住民たちからなお食糧を奪っていった祖国の軍と、自軍の兵が飢えることさえいとわず軍糧を与えた日本軍と、果たしてどちらを支援するかは明らかです。

河南で起きたことを目撃していたアメリカ人記者セオドア・ホワイトは、著書『歴史の探究』のなかで次のように綴っています。
「仮に私が河南の農夫だったら、あれ(飢饉)から一年後の河南の農民と同じように、祖国中国の軍隊を破ろうとする日本軍に手を貸しただろう。」

日中戦争
支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺 より引用
セオドア・ホワイト1915年 - 1986年
アメリカ政治ジャーナリスト・歴史家・小説家。ハーヴァード大学を卒業後、中華民国の臨時首都であった重慶に滞在し、国民政府のプロパガンダ部門のアドバイザーを務めたのちフリーランスのジャーナリストとなる。後に『タイム』誌の中国特派員となり、戦時報道に携わる。

帰国後、戦時中国に関するベストセラー『Thunder Out of China』を執筆、国民政府の腐敗と中国共産党の台頭を克明に記した。戦時中国の滞在経験を活かして小説『The Moutain Road』を著し、中国戦線における日本軍の攻勢からの米軍の撤退の模様を描いた。
1960年に映画化されている。他にもアメリカ合衆国大統領選挙のレポートで有名。

生存を脅かされるほどに追い詰められた民衆が最後に立ち上がることは、歴史において度々繰り返されてきました。その際、外国の軍隊がそれを手助けしたことも、枚挙にいとまがありません。

「日本軍 = 暴虐な侵略軍」といった固定観念だけでは語りきれない事実も、歴史の襞(ひだ)のなかには隠されているのです。

 
参考URLと書籍の一覧はこちら

フィリピン英語留学協会の活動報告 2019年1月

$
0
0

少し遅くなりましたが、フィリピン留学協会の活動報告をしたいと思います。

1月30日と31日、フィリピン英語留学協会として2日間に渡るイベントを行いました。

世界の留学業界で知名度のある2つの組織団体の代表の方を呼んで、セミナーとフィリピン留学の視察です。

なぜこのような事を行ったのかといえば、前回の記事でも書いておりますが、フィリピン留学は世界的に知名度がほとんどありません。そのため、業界で影響力のある組織団体の方々を招待することで、フィリピン留学の価値を知ってもらいたかったからです。

Quality English

今回お越しになったVIPの一つは、Quality Englishと呼ばれる組織団体です。
世界には数多くの語学学校があります。3000校以上あると言われていますが、これだけあると良い学校とそうでない学校の差が出てきます。

エージェントは学校を選びますが、Quality Englishでは一定の水準・基準を持った学校とエージェントを選んで、Quality Englishの学校とエージェントに紹介の認証を出しています。

語学学校がこのQuality Englishに加盟しているということは、様々な審査を通った後のお墨付きということです。つまり、留学生にとっては学校選びの際に重要な指標になり、留学エージェントにとっては安心して送客できる対象校になります。

Quality Englishには国ごとの制限数があるためフィリピンで加盟できる語学学校は限られます。そのため、フィリピン留学協会としては、MOUを結びフィリピン留学をQuality Englishとのパートナー関係を構築することで、全体の信用と価値を引き上たい狙いがあります。

Student Marketing

もう一つのVIPはStudent Marketingという、世界各国の留学業界の統計データを取っている組織団体の創始者&CEOにお越しいただきました。

世界各国のデータを集めている組織団体で、今回のセミナーでは他では知ることが中々できない、重要な統計データを見せていただきました。

世界各国の留学生の事情、どのぐらい各国にポテンシャルがあり、どこを攻めるべきなのか、一見ボリュームが多そうな国にどんな落とし穴があるのか。

フィリピン留学以外の留学事情はどういう状況なのか。。。

今後、世界的にマーケティングを行なっていこうとする学校にとっては、価値のあるセミナーだったと思います。

フィリピン英語留学協会ができる前では呼べなかった

フィリピン英語留学協会ができる前は、この組織団体の重要性に気づいたとある大手の学校が数年間口説いてきましたが、フィリピンに足を運んでもらえませんでした。

しかしながら、今回はフィリピン英語留学協会が出来たことで、彼らの興味を引き出すことに成功しました。

もちろん組織ができただけで、業界の権威が興味を持ってくれるわけではありません。

フィリピン留学協会の組織を作る前から特定のメンバーが彼らに声をかけ続け、昨年ロンドンのフェアに参加してメンバーが成果を出し、タイのフェアでもブースを設けてアピールし、フィリピン観光省ともミーティングを複数回重ねた上で公式に認められた。

こういった事の積み重なりが、今回の招待へと繋がりました。

特にIDEAアカデミアと3Dアカデミーからは、忙しい時期にもかかわらず、無給で何人もの人に手伝っていただきました(理事メンバーのため)。

そこまでしてなぜ行うかといえば、それがフィリピン留学業界全体へ良い影響を与えると我々は信じているからです。

Quality EnglishとStudent Marketingはフィリピン留学をどう思ったのか?

Quality EnglishとStudent Marketingはセミナーを行うだけではなく、いくつかの学校を視察しました。

彼らのスケジュールが相当タイトだったため、フィリピン留学協会のほとんどの学校を視察は出来ませんでしたが、視察中は驚きの連続だったようです(良い意味で)。

特に世界中の留学統計が頭に入っているStudent Marketingの代表、サムエル氏の言葉が印象的でした。

“So...You Should Not Be Too Humble.”

今後こういった話はどんどん出てくる予定ですので、まだ加盟していない語学学校のオーナー様はぜひご検討して頂けたらと思います。

お知らせ:2019年4月27日にセブ島留学マナビジン主催の日韓の語学学校を招待したセミナーを行います。今回はゲストとして、フィリピン観光省、セブパシフィック航空、フィリピン留学協会にお越しいただきます。

ほぼ全ての語学学校にお声をかけさせて頂く予定です。

当日の予定プログラム
15:00〜:マナビジンの代表、斉藤による国内向けのウェブマーケティングセミナー
16:00〜:DOTの挨拶とお知らせ
16:15〜:English Philippinesのセミナー、世界の統計
17:00〜:セブパシフィックのセミナー
17:15〜:English Philippinesのセミナー、世界のスタンダードの紹介
18:00〜:食事会
19:30:解散

*詳しい内容は各学校様宛にメール致します。
語学学校のオーナーたちが一同に介する会は、めったにありませんので、この機会にぜひご参加ください!

【Genius English】セブ随一の多国籍!ネイティブ講師との英会話も楽しめるリゾート校

$
0
0

ジーニアスイングリッシュ(Genius English)は、セブのマクタン島のリゾートエリアにあり、有名ホテルが面する通りにあります。学校や寮は同じ建物で、海沿いのコンドミニアムを使用しています。

また、ロシア人が校長で、欧米の語学学校のような雰囲気があります。それだけでなく、生徒の国籍の珍しさは随一です。
通常、「多国籍」とうたっていてもほとんどが韓国や台湾の「アジア系」が大部分を占めます。それに対しジーニアスは、アラブ・ロシア・ヨーロッパなどの珍しい国籍の割合が高いです。

さらにセブでネイティブが在籍している学校自体が珍しいのですが、ジーニアスでは4名ものネイティブスピーカーの講師(米・加・豪)がおり、グループクラスを担当します。そのため、どのコースでも必ずネイティブとの授業が含まれます。またネイティブとのマンツーマンも含むコースもあります。

講師の質にこだわり、全員フルタイム契約のみでアルバイト講師は絶対に雇いません。講師の質を維持するために、繁忙期や閑散期を理由とする増員や解雇も行いません。新卒や未経験は採用しませんし、それ以外にも厳格な基準で採用が行われます。

と、数ある語学学校でも非常にわかりやすい学校です。

学校公式サイト

https://genius-english.jp/

おすすめポイント3つ

1. 多国籍な環境で学習できる!

ジーニアス
ジーニアスは、韓国や台湾、ベトナムなどの「アジア系」ではない国籍の比率が高いのが特徴です。特にサウジアラビアを中心とするアラブ系は6-7月には日本人より多いかほぼ同じくらいの割合になります。ロシアの生徒やヨーロッパ系、ブラジル、モンゴルなどセブの語学学校では珍しい国籍になります。

単純に異文化交流や友達を作るだけでなく、様々な国の人が話す、多様な発音や訛りの英語に触れられる貴重な機会を得られます!

2. 海沿いのコンドミニアムでリラックス!

ジーニアス
学校と寮は同じ建物で、海沿いのホテルの敷地内にあるリゾートコンドミニアムを使用しています。
スタジオタイプのコンドミニアムの1室をまるまるお部屋として使用いたしますので、とても広々としております。すべてのお部屋に大きな窓とバルコニーもあり、長期滞在でも快適です。

オーシャンビューのお部屋もあり、5-7階の高層階から望む海の眺めは「まさにセブ!」のイメージ通りのもので、十分に選択する価値があります。

3. ネイティブ講師と厳選された質の高い講師陣

ジーニアス
4名のネイティブ講師がおり、ワーホリや2カ国留学準備、また特にビジネス英語やIELTS対策と言った、ネイティブとのコミュニケーションが欠かせない分野で大きく得られるのもがあります。

講師の質にはこだわっており、全員がフルタイム契約。未経験や新卒は採用しません。採用基準も厳しく、40名面接して1人も採らないこともあります。採用後も生徒からの評価を中心に厳しくチェックし、改善できない場合は即解雇としています。

学校詳細

設立年度
2013年
規模
80人
国籍比率
日本40-50%、アラブ35-15%、中国・台湾20-10%、その他(ロシア、ブラジル、スペイン、モンゴル、ベトナム等)20-10%
*2019年3月時点 国籍比率は時期によって変動します。
日本人スタッフ
2-3名
食事
土日祝日も含む3食を提供、料金は込み
学校施設
ウォーターサーバー、食堂、売店、自習室、WIFIは学校全域、ジム、プール
宿泊施設
学校と同じ建物内の3-7階を使用、1人部屋から4人部屋まで。1人部屋にはオーシャンビュールームもあり。
門限
なし
入寮・退寮日
入寮:日曜
退寮:土曜
入学日
毎週月曜日
清掃
週2回
洗濯
週2回
主な学校規則
男女の部屋の出入り禁止
お部屋でのみ飲酒は可能だが、騒いだり部屋員以外との飲酒は禁止
学校周辺
観光通りなので、徒歩圏内に大きなスーパーや両替所、カフェ、マッサージ屋、マクドナルド、セブンイレブン、日本食レストラン5店舗、ダイビングショップ多数、と日常生活に困りません。
場所
マクタン島のマリバゴリゾートエリア

コース・料金

コース名マンツーマングループコース説明
General A50分×4コマ50分×2コマビジネスや試験対策コースにかぶらない範囲で一般的な英語学習の内容です。マンツーマンの科目はすべて自由に選択可能です。
General B50分×6コマ50分×2コマビジネスや試験対策コースにかぶらない範囲で一般的な英語学習の内容です。マンツーマンの科目はすべて自由に選択可能です。
Native General A50分×4コマ50分×2コマビジネスや試験対策コースにかぶらない範囲で一般的な英語学習の内容です。マンツーマンの科目はすべて自由に選択可能です。マンツーマンのうちの1コマがネイティブ講師とのマンツーマンになります。
Native General B50分×6コマ50分×2コマビジネスや試験対策コースにかぶらない範囲で一般的な英語学習の内容です。マンツーマンの科目はすべて自由に選択可能です。マンツーマンのうちの1コマがネイティブ講師とのマンツーマンになります。
BUSINESS ENGLISH, TOEIC, TOEFL, IELTS A50分×4コマ50分×2コマビジネス英語もしくは各種試験対策コースです。General英語の講師とこちらのコースの講師は分けており、専任講師のみが担当します。ビジネス英語は生徒さんの要望にあわせてマンツーマン科目の選択が可能です。
BUSINESS ENGLISH, TOEIC, TOEFL, IELTS B50分×6コマ50分×2コマビジネス英語もしくは各種試験対策コースです。General英語の講師とこちらのコースの講師は分けており、専任講師のみが担当します。ビジネス英語は生徒さんの要望にあわせてマンツーマン科目の選択が可能です。
NATIVE BUSINESS ENGLISH, TOEFL, IELTS A50分×4コマ50分×2コマビジネス英語もしくは各種試験対策コース(TOEICのぞく)です。General英語の講師とこちらのコースの講師は分けており、専任講師のみが担当します。ビジネス英語は生徒さんの要望にあわせてマンツーマン科目の選択が可能です。マンツーマンのうちの1コマがネイティブ講師とのマンツーマンになります。
NATIVE BUSINESS ENGLISH, TOEFL, IELTS B50分×6コマ50分×2コマビジネス英語もしくは各種試験対策コース(TOEICのぞく)です。General英語の講師とこちらのコースの講師は分けており、専任講師のみが担当します。ビジネス英語は生徒さんの要望にあわせてマンツーマン科目の選択が可能です。マンツーマンのうちの1コマがネイティブ講師とのマンツーマンになります。

料金表

ジーニアス 詳細は、学校公式サイトをご覧ください。

学校代表者からメッセージ

ジーニアス
スタッフ
畑中佳之
日本人スタッフの畑中です。ジーニアスの最初の日本人生徒から始まり、5年間スタッフとして生徒さんの留学や生活のお手伝いをしてきました。語学学校多しと言えど、オーナーや経営者以外で5年もいる人は少ないです。
これだけいれるのもジーニアスが居心地の良い学校だからだと思います。学校運営に粉骨砕身しているのはもちろんですが、実際に生徒さんに接する「学校の顔」として、最大限お役に立てるように頑張っています。どんなに学校の制度やシステムが良くても、スタッフの対応で満足度は大きく変わります。
ジーニアスはとても特徴のある学校なので、学校もスタッフも好きになってもらって、何度でも留学してもらいたいと思います。

ギャラリー

学校

ジーニアス ジーニアス

宿泊施設

第1部 3章 泥沼の日中戦争(6/10)日本は世界を征服しようとしたのか?

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(5/10)日本は残虐な侵略軍だったのか?歴史に埋もれた真実

5.泥沼の日中戦争へ

5-9.日本は中国で何をしたかったのか?

その1.親日政権の樹立

ー 親日政権はなぜ樹立されたのか ー

自ら望み、計画して実行したわけではないものの、日本は成り行き上日中全面戦争へと引き込まれ、泥沼に足をとられて前に進めない状況に陥っていました。

では、日本は何を目的にして中国との戦争を続けていたのでしょうか?

戦争に至ったとはいえ、戦争の最終目的が常に相手国の征服におかれるわけではありません。中国は広大な土地と4億を超える人口を抱える大国です。それほどの大国を支配する力も、植民地として統治する力も、日本にはありませんでした。

日本が目的としたのは反日政権である国民政府を転覆させ、その代わりとして親日政権を中国に打ち立てることでした。(中国で共産主義が広がることを抑えることも日本の戦争目的でした)

それは、アメリカが2003年に行ったイラク戦争において、反米であったフセイン独裁政権を打倒することで親米の民主政権を樹立させようとした企てと、よく似ています。

日中戦争
wikipedia:サッダーム・フセイン より引用
サッダーム・フセイン1937年 - 2006年
イラク共和国の政治家。スンナ派のアラブ人であり、イラク共和国の第5代大統領・首相・革命指導評議会議長・バース党地域指導部書記長・イラク軍最高司令官を務めた。軍階級は元帥。もともと軍人ではなかったが巧みな権謀術数で古参党員や軍人を排除し、バース党の実権を握った。

大統領就任後は粛清を徹底し、諜報監視網をめぐらして弾圧する「恐怖の共和国」を樹立したとされる。その一方でイスラム教の支配を離れ男女平等を実現し、医療を発展させるなどイラク国民にとっては善政を敷いていた。9.11同時多発テロを受けてアメリカはイラクがテロ集団を隠匿し、大量破壊兵器を所有していると非難し、イラク戦争に踏み切った。

イラクに侵攻したアメリカ軍によって拘束され、シーア派に対する「人道に対する罪」を犯したとして処刑された。しかし、アメリカの指摘する大量破壊兵器はついに見つからなかった。フセイン政権が倒れたことでイラクは無法地帯となり果てた。

アメリカはフセイン政権を葬ることには成功したものの、イラクに安定した親米政権を打ち立てることには未だに成功していません。そればかりかイラクの社会秩序はフセイン政権時とは比較にならないほど悪化し、解決の見通しさえ立っていません。多大な人命と資金を注ぎ込んだにもかかわらず、アメリカの目論見は完全に失敗に終わったと言えるでしょう。

当時の日中戦争も、イラク戦争とよく似た経過をたどっています。孤立無援だったフセイン政権と異なるのは、蒋介石政権は欧米やソ連に支援されることで土俵際で踏ん張れたことです。

そのため、日本が蒋介石政権を軍事的に制圧することは、ほぼ不可能という状況が生まれていました。中国の主要な都市をすべて占領されたにもかかわらず、「支那には戦場と軍人は
いくらでもあるから、長期抗戦はこれからだ」と蒋介石の戦意はまったく衰えることを知りませんでした。

反日を旗印として掲げる蒋介石政権を排除できないものの、親日政権樹立に向けての動きは、すでに始まっていました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
親日政権の位置関係

1937年12月に北京に中華民国臨時政府、1938年3月に南京に中華民国維新政府、1939年9月には蒙古聯合自治政府が内蒙古に、それぞれ成立しています。いずれも日本が支援して樹立した親日政権です。

中国に親日政権が誕生さえすれば日中間の問題を根こそぎ解決できると、政府にしても軍部にしても考えたのです。

その成功例がすでにありました。満州です。満州国には親日政権が樹立されたことで、日本にとって好ましい状況が生まれていました。

ー 親日政権はなぜ失敗したのか ー

華北においても華中においても、日本は満州に準じる親日政権を打ち立てようと、3つの政権を積極的に支援しました。しかし、日本の思い描いた通りに事は進みませんでした。

その理由はいくつかあります。ひとつは、政権をまとめられるだけの影響力のある人物がいなかったことです。北京の臨時政府にしても、南京の維新政府にしても、その中核を担ったのは、かつて国民党に敗れて追い出された北洋政府の官僚たちです。そのなかには実績のある有能な人物がいませんでした。

日本としてはいずれは北京臨時政府と南京維新政府を統一させて中央政府を打ち立てる予定でしたが、中心人物がいないため、計画は進みませんでした。

さらに大きな問題は、3つの親日政権はいずれも農村に行政組織を広げることができなかったことです。先にも紹介した通り、日本が実際に占領支配していたのは主要都市と鉄道沿線のみです。

北京の臨時政府にしても、南京の維新政府にしても、その地域のほとんどを占める広大な農村部までは、日本軍の支配は及びませんでした。農村部は国民党、あるいは国民党が消えるとともに入り込んできた中国共産党が実質的に支配していたのです。

日本軍としても定期的に農村に出向いては、抗日武装勢力を排除しようとしました。しかし、国民党にしても共産党軍にしても日本軍との正面衝突は避け、日本軍が農村に来れば山に隠れてしまいます。日本軍が農村に留まることができるのは短期間に限られました。

日本軍が去れば、すぐに彼らは農村に舞い戻り、支配を続けたのです。このような状況では農村部に行政組織を作ることなどできるはずもありません。

そのため、親日政権は農村から税収として食糧を徴収することができませんでした。そのことは、政権が経済的に自立できないことを意味しています。

つまり実際には税収を確保できなかったため、政権とは名ばかりでいつまで経ってもまともな運営ができなかったのです。

日本政府は親日政権を存続させるために、財政援助を与えるよりありませんでした。その経済的負担が日本側に重くのしかかったことは、言うまでもありません。

結局のところ日本は、中国に親日政権を樹立することに完全に失敗しました。親日政権を新たに樹立することで日本に対する中国の脅威を取り除こうとした目論見は、8年の長きにわたる日中戦争において、ついに実現することはなかったのです。

その2.日本は世界を征服しようとした!?

ー 田中上奏文に見る日本の世界征服計画 ー

今日の中国の教科書では、「日本が中国を滅ぼすために侵略したことで日中戦争になった」と教えています。たしかに客観的に見るならば、日本軍と中国軍が戦ったのは中国大陸であるだけに、日本による一方的な侵略と中国側が受け取るのも無理からぬ面はあります。

しかし、盧溝橋事件とその後の事変拡大や第二次上海事変にしても、日本が積極的に仕掛けて起きたとは言えないことは、ここまで紹介した通りです。

中国が主張するように、日本が中国を征服する目的で戦争を起こしたとする証拠は一切ありません。日本が為したかったことは、反日にこり固まっていた蒋介石政府を取り除き、その替わりとして新たに親日政権を樹立することでした。

中国大陸そのものに対する領土的な野心など、日本は初めから持ち合わせていなかったと言えるでしょう。

ところが当時、日本が中国を征服し、さらには世界征服まで企んでいるというまことしやかな情報が世界中を駆け巡っていました。そうした情報の発信源となったのが、「田中上奏文」と呼ばれる怪文書です。

日中戦争
http://politics.people.com.cn/BIG5/1026/3545977.html より引用
中国版の田中上奏文

中国では未だに「田中上奏文」を、日本による中国征服の証拠としています。たとえば盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館には田中上奏文が展示されており、日本が世界征服を企んだ証拠と紹介されています。

なぜなら田中上奏文には次のように記されているからです。

「世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。わが国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までがわが国の威風になびくだろう」

田中上奏文は中国語で4万字を超える長文で綴られています。1927(昭和2)年に第26代内閣総理大臣田中義一が昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされています。

日中戦争
wikipedia:田中義一 より引用
田中義一(たなか ぎいち)1864(元治元)年 - 1929年(昭和4)年
明治-昭和時代前期の陸軍大将・政治家。長州閥最後のリーダー。第26代内閣総理大臣。原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行。幣原外交を排難し、組閣後は中国に対する強硬外交を展開した。張作霖爆殺事件の責任を負って辞職。昭和天皇へ極秘に行ったとされる田中上奏文によって世界的に知名度があるが、田中上奏文は偽書として確定している。

そこには日本が満州・中国を手始めに世界を征服しようとしている計画が記されていただけに、世界中に衝撃を与えました。

折しも満州事変が起きる直前に中国語にてタイミングよく公表されたため、田中上奏文は英語版・ドイツ語版・ロシア語版などに翻訳され、瞬く間に世界中に広がったのです。

公表された直後に実際に満州事変が起きただけに「ついに日本が世界征服に乗り出した」と、世界中の多くの人々が思ったことも無理からぬことでした。

ー おとしめられた日本のイメージ ー

今日、東京裁判史観によれば、大東亜戦争は日本が世界征服を目的に始めた侵略戦争であるとして断罪されています。実はこうした日本悪玉論の発信源となったのが、田中上奏文です。

中国で発行された『民国史大事典』において、田中上奏文は次のように記載されています。

「田中義一首相兼外相が1927年7月、天皇に奏呈した文書。内容は支那を征服するためには、まず満蒙を征服しなければならず、世界を征服するためには、まず支那を征服しなければならないとし、そのためには鉄血手段を以て、中国領土を分裂させることを目標としたもので、日本帝国主義の意図と世界に対する野心を暴露したもの」

日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等 第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』 より引用

たしかに田中上奏文が本物であるならば、日本は世界征服を企む悪の帝国だったことになり、それと戦った中国は正義の国として位置づけられます。

現代の感覚からすれば「スターウォーズじゃあるまいし、世界征服を企む悪の帝国なんてバカらしい」と一笑に付したくなるところですが、当時の世界情勢からすれば笑い話ですませられるような軽々しい話ではありませんでした。

実際、東京裁判に際してキーナン主席検事は冒頭陳述において、日本は昭和3年以来、世界征服の共同謀議による侵略戦争を行ったと指摘しています。日本は世界を支配するという目的をもって侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したとの論です。

日中戦争
wikipedia:ジョセフ・キーナン より引用
ジョセフ・キーナン1888年 - 1954年
アメリカの法律家・弁護士。オハイオ州検事総長補佐官を経て連邦検事総長補佐官。極東国際軍事裁判ではアメリカ合衆国主席検察官兼連合国主席検察官を務めた。日本の戦争行為を〈文明に対する挑戦〉と糾弾したが、昭和天皇に関してはマッカーサーの意向を受けて免責を実現した。後に国連パレスチナ調査委員会アメリカ代表。

また、ポツダム宣言にも次のような条項があります。
「6.吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和安全および正義の新秩序が生じえざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞(ぎまん)し、之をして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯しめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず。」

2015年には国会でも、この「世界征服」の文言が問題となり、政府は「当時の連合国側の政治的意図を表明した文章だ」とする答弁書を出しています。

現代から振り返れば荒唐無稽(こうとうむけい)ではあるものの、少なくとも当時は日本が世界征服を本気で企てているとする見方が強かったことは事実です。

日本を悪の帝国として印象づけることにおいて、田中上奏文の果たした役割は極めて大きかったと言えます。

ー 偽書だけでは片付けられない不可解な現実とのリンク ー

では、田中上奏文は本物だったのでしょうか?

今日では、田中上奏文はよくできた偽書だったとの通説で世界的に落ち着いています。未だに本物であったと主張しているのは、中国共産党だけです。

田中上奏文には様々な矛盾したことが記されています。すでに死去している山県有朋が会議に参加していたり、宛名など上奏文としての細かな形式も間違っています。また言葉遣いにしても上奏にしては考えられないほど乱暴であることも指摘されています。

日中戦争
wikipedia:山県有朋 より引用
山県有朋(やまがた ありとも)1838(天保9)年 - 1922(大正11)年
明治-大正時代の軍人・政治家。元老。元帥陸軍大将。第3・9代内閣総理大臣。松下村塾門下生として尊攘思想を学び、のちに戊辰戦争に参加。明治維新後、ヨーロッパ諸国の軍制を視察し陸軍創設・徴兵令施行・軍人勅諭の発布など軍制の整備に努めた。日本陸軍の基礎を築いたことから「国軍の父」とも呼ばれている。法相・内相・首相・枢密院議長を歴任。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所として「元老中の元老」とされ、隠然たる影響力を保った。「日本軍閥の祖」とも称される。

日本語による原文は未だに発見されていません。原文を見たとする証人もいないようです。

どこからどう見ても偽書であることが濃厚な田中上奏文が、なぜ世界に広まり、そこに書かれている内容が真実であると信じられたのかと言えば、満州事変以降の日本の動きが田中上奏文に記されたままだったからです。

田中上奏文には「日本が世界を制覇するには米国を倒さなければならない」とする内容も記されていました。満州事変の次に日中戦争を起こし、南進を始めたことで日米開戦へと至る流れは、まさに田中上奏文に記されたままでした。

『ニューヨーク・タイムズ』も「田中上奏文に沿って事態が進んでいる」という記事を掲載しています。

東京裁判において検察側証人として出廷した秦徳純は、ウエップ裁判長より田中上奏文が本物であるとの確信があるか否かと問われた際に、本物であるとの証拠はないと答えた後に「しかしながら事実上に於て日本軍がその後中国に於て一歩一歩行なった事実は、あたかも田中メモランダムは著者である田中が予言者であるかの知く感ぜられる点があります」と述べています。

日中戦争
wikipedia:ウィリアム・ウェブ より引用
ウィリアム・ウェブ1887年 - 1972年
オーストラリアの法律家・裁判官。クイーンズランド州最高裁判所長官(首席裁判官)のとき、オーストラリア政府により、第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の調査担当に任命され、検察官の役割を果たした。オーストラリア高等裁判所裁判官に就任。極東国際軍事裁判(東京裁判)裁判長を務めた。なお先に検事の役割を果たした人物が裁判長になることに対して弁護団より裁判官忌避の申し立てが為されたが、一方的に退けた。

弁護人から国際法で禁止されている原子爆弾を投下し、多数の非戦闘員を殺戮した連合国側に捕虜虐待についての責任を問う資格があるのかと問われた際には、「本裁判所の審理と関連はない」として原子爆弾についての是非は一切審理しなかった。裁判では全員に有罪判決を下した。大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を授与される。

偽書であるにもかかわらず、なぜ田中上奏文はあたかも予言の書のように日本の進むべき道を指し示していたのかは、謎です。歴史を知っている私たちからすれば、当時の世界情勢からしてそのような予測をすることも可能だったろうと安易に考えがちですが、近い将来に日本が中国と全面戦争をしたり、南進してアメリカと戦争を行うことになるなどと発想すること自体至難の業です。

偽書であることは間違いものの正確に日本の将来を見通していることにおいて、田中上奏文はまさに怪文書でした。一つの可能性として、当時の石原たちの思想に接することのできた人物が作ったのではないかとの説もあります。またソ連による謀略説も有力です。

いずれにせよ中国がプロバガンダとして田中上奏文を利用したことは間違いありません。欧米のマスコミは田中上奏文自体が偽書であるらしいと認識していながらも、その内容が現実とあまりにもリンクするため、あたかも日本による世界征服の計画が実際に進んでいるかのような不気味さを感じていました。

アメリカの著名な報道記者であるエルマー・ディヴィスは、田中上奏文を題材に日本の政策を次のように論じています。

アジアの支配と最終的な世界における覇権獲得に向けた日本の計画の開始を目論む有名な「田中上奏文」は、中国人による捏造(ねつぞう)であると非難されてきた。実際、おそらくそうなのであろう。だが、近年の日本の政策は、その文書の全般的筋書きに従っている。解釈は中国人によるものかもしれないが、それによって立つ証拠を与えているのは日本人だ。

人種戦争という寓話―黄禍論とアジア主義』廣部泉著(名古屋大学出版会)より引用

日中戦争
wikipedia:戦争情報局 より引用
エルマー・ディヴィス1890年 - 1958年
米国のジャーナリスト・小説家。CBS Newsの記者として活躍。ルーズベルト大統領が戦争情報局を設置するとディレクターとして雇用され、海外のニュースやレポート、国内外のプロパガンダを分析するという任務を負った。戦争情報局映画部を指揮し、ハリウッドの協力を得てアメリカの戦争目的を前進させることに尽力した。

日本の外務省は「日本に世界征服を謀るような野心はない」と世界に向けて必死になって説きましたが、軍部による戦線の拡大を前にしては、説得力を持ちませんでした。

中国による捏造かソ連による謀略かははっきりしていませんが、現実がそこに書かれている計画のままに進行したこともあり、田中上奏文の存在によって日本は「世界征服を企てた悪の帝国」としての汚名を一方的に課されることになったのです。

 
参考URLと書籍の一覧はこちら

第1部 3章 泥沼の日中戦争(7/10)アジアから突きつけた初めての挑戦状「東亜新秩序」とは

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(6/10)日本は世界を征服しようとしたのか?

5.泥沼の日中戦争へ

5-10.東亜新秩序が変えた世界

その1.東亜新秩序の建設

日中戦争
日華満(日本・中国・満州)協助天下太平のポスター

国家総動員法によって国民の日々の暮らしは大きな制約を受けるなか、軍事的にも政治的にも手詰まりに陥ったまま、出口がまったく見えてこない日中戦争に対する苛立ちは日本中を覆っていました。

日中戦争の長期化を避けられない以上は、日本はなんのために戦っているのかという大義名分を国民、及び諸外国に向けて示す必要に、政府は迫られていました。

そこで、1938(昭和13)年11月3日、近衛内閣によって発表されたのが「東亜新秩序」の声明です。この声明にて近衛首相は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序」の建設を日本の基本国策として定めることを、内外に向けて宣言しました。

ここでいう「東亜」とは日本・中国・満州の三国です。その内容は「東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現」のために、三国は政治・経済・文化での提携を深め、新秩序を建設するとの声明でした。

のちに大東亜戦争の目的として掲げられる「東亜新秩序」という言葉が、初めて使われたのがこの第二次近衛声明でした。この声明こそが、大東亜共栄圏構想の出発点といえます。

「東亜新秩序」の声明は画期的でした。

開国以来の日本の歩みのなかで、主軸として貫かれてきたのが「アジアのためのアジア」を掲げた汎(はん)アジア主義です。汎アジア主義(大アジア主義)とは、欧米列強のアジア侵略に対してアジアの一体性や解放を説く主張・理念のことです。

欧米列強によって植民地化されたアジアから支配者である白人を追い出し、アジアをアジア人自身の手に取り戻すことは、同じアジアの一カ国である日本にとっての悲願でした。

日本から発信された汎アジア主義は、日露戦争に勝利することでアジア全域の民族主義者を目覚めさせました。しかし、汎アジア主義の機運はあくまで民間レベルで高まっていたに過ぎません。
▶ 関連リンク:2.日露戦争がもたらしたもの-その1.アジア主義の始まり

ところが「東亜新秩序」の声明により、初めて日本政府が汎アジア主義を国家の政策として採用すると宣言したことになります。このことは日本にとって、そして世界にとっても、歴史的な転換点と言えます。

「東亜新秩序」は、長らく世界を支配していた欧米列強に対して、アジアから突きつけた初めての挑戦状です。

なぜなら「東亜新秩序建設」の声明は、ワシントン体制から日本が抜け出すことを意味しているからです。

第一次大戦後のアジアの秩序は、1921(大正10)年のワシントン会議にて定められた体制によって保たれてきました。現状維持を基本とする九カ国条約によって、アジアの秩序は守られてきたのです。
▶ 参照リンク ワシントン会議に見る幻想としての平和-日本の手足を縛った九ヵ国条約

しかし、日本は今後はアジアに関しては、日本が主導的な役割を果たしながら新秩序を建設すると主張したわけです。それは、ワシントン体制を守ることによってもたらされる現状維持に真っ向から反逆するものでした。ワシントン体制に対するあからさま挑戦です。

日本は明治以来、米英との協調を外交の基本方針に据えてきました。それは軍事的にも経済的にも弱小国に過ぎなかった日本が生き残るために、やむを得ない選択でした。

その基本方針を日本は、近衛の「東亜新秩序の建設」声明によってかなぐり捨てたのです。今後は米英との協調よりも、自主外交に軸足を移すとはっきり宣言したことになります。

こうしてアジアに関しては自主外交を推し進めようとする日本の姿勢は、アジア版のモンロー主義とも呼ばれ、世界に波紋を広げることになりました。

その2.アジア・モンロー主義とは

明治から昭和にかけての思想家として名を馳せた徳富蘇峰は、第一次大戦中にアジア・モンロー主義を次のように説きました。

亜細亜モンロー主義とは、亜細亜の事は、亜細亜人によりて、之を処理するの主義也。亜細亜人と云うも、日本国民以外には、差寄り此の任務に膺るへき資格なしとせは、亜細亜モンロー主義は即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也。

「亜細亜モンロー主義を以て、我が帝国の使命と為す」と徳富蘇峰は、その決意を表明しています。

「アジアのことをアジア人で処理できるように」するために、日本人がその使命を担うという表現には驕(おご)りが感じられないわけではないものの、アジアで独立を保ち、欧米列強に対抗できる力をもっていたのは日本しか存在してなかった以上、現実的に見てそれ以外の選択肢はなかったと言えるでしょう。

日中戦争
wikipedia:徳富蘇峰 より引用
徳富蘇峰(とくとみ そほう)1863(文久3)年 - 1957(昭和32)年
明治-昭和時代のジャーナリスト・評論家・史学家。月刊誌「国民之友」を主宰、「国民新聞」を発刊。当初は平民主義を主張していたが、日清戦争を機に皇室中心の国家主義思想家に転じる。

『皇道日本之世界』『興亜之大戦』などを著し、大日本言論報国会会長につくなど盛んに文章報国を唱えた。アジア・モンロー主義の主張は有名。第2次大戦後公職追放。『毎日新聞』の社賓となって代表作『近世日本国民史』 (100巻) を連載した。文化勲章を受けるが後に返上。

アジア・モンロー主義とは、アジア版のモンロー主義を意味しています。モンロー主義はもともと、アメリカが国是として掲げてきた主義です。

わかりやすくまとめれば、モンロー主義とはこんな主張です。

「アメリカ大陸の一部である中南米はアメリカの裏庭のようなものだから、ヨーロッパ諸国は干渉しないでくれ、その代わりアメリカもヨーロッパで何が起きても干渉しませんから!」

つまり、モンロー主義とは、欧州に対するアメリカ合衆国による「アメリカ大陸縄張り宣言」です。中南米は地理的にも歴史的にもアメリカ合衆国と近く、密接な関係にある、だからアメリカは自衛のために中南米に干渉しなければならない、それについてヨーロッパ諸国が干渉することは許さない、その代わりアメリカもヨーロッパの出来事には干渉しない、と表明したのです。

日中戦争
https://www.mediastorehouse.com/ より引用
アメリカのモンロー主義を諷刺した画

一方的な縄張り宣言をして、ヨーロッパ諸国に文句を言わせないだけの国力がアメリカにはありました。もし、ヨーロッパのどこかの国がモンロー主義に逆らって中南米に干渉しようとすれば、アメリカは武力をもってこれを取り除くと宣言したわけです。

モンロー主義に則り、アメリカは中南米諸国に対して武力を背景に様々な面で主導的な役割を果たしてきました。そのなかには侵略としか言いようのない干渉も含まれています。メキシコからテキサスをはじめ、ニューメキシコ・アリゾナ・カリフォルニアなどの広大な領土を奪取したことは、歴史的な事実です。

アメリカによるモンロー主義があまりにも露骨な侵略行為を含むため、アジア・モンロー主義という言葉も誤解されがちですが、徳富蘇峰はこうも述べています。

誤解する勿れ、吾人は亜細亜より白人を駆逐するか如き、偏狭なる意見を有するものにあらす。但た白人の厄介にならぬ迄の事也、自問の欧風を跋扈(ばっこ)を蕩掃(とうそう)する迄の事也。

つまり、徳富蘇峰の説いたアジア・モンロー主義とは、日本人が東洋人の先頭に立って白人を退治するのではなく、白人に向かって東洋を理解せしめることなのだと述べています。この点において、アジア・モンロー主義は闘争主義の真逆を行くものです。

日本から近いアジア、ことに隣国である中国の状態は、日本の自衛に直接影響してきます。そのため、多くの場合において日本は中国の内政にも政変にも関与しなければならない必要に迫られることがあり、内政干渉もやむを得ないことがあるのだと、欧米諸国に理解を求めることが、徳富蘇峰の説くアジア・モンロー主義といえるでしょう。

「領土相近接する国家の間には特殊の関係を生じ、従って特殊の利益が存する」というモンロー主義の根っこにあたる部分を、アジアにそのまま当てはめたのがアジア・モンロー主義です。

東亜新秩序の建設とは、まさに日本政府によるアジア・モンロー主義の宣言でした。

その3.東亜新秩序声明をめぐる各国の反応

東亜新秩序声明に先立つ1934(昭和9)年に天羽英二外務省情報部長が記者会見の席上で語った非公式談話が、欧米の反発を招いたことがあります。

日中戦争
百度百科:天羽英二 より引用
天羽英二(あもう えいじ)1887(明治20)年 - 1968(昭和43)年
大正-昭和時代の外交官。外務省情報部長のとき、日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であり、列強による中国援助は日中の特殊関係を考慮すれば「主義として之に反対せざるを得ない」と述べた非公式談話「天羽声明」を発表。

中国・欧米の反発を招いた。日独伊三国軍事同盟締結時の駐イタリア特命全権大使。大東亜戦争中は外務次官や内閣情報局総裁を務めた。戦後A級戦犯指名を受け、巣鴨拘置所に勾留。GHQにより公職追放の後、釈放。公職追放解除後は財団法人日本国際連合協会副会長兼事務局長・文部省日本ユネスコ国内委員会委員等を務めた。

その頃、日本が満州での支配を固めたことに対して、アメリカ・イギリス・国際連盟は中国に向けて経済援助工作をしていました。そのことは日本の国益に反する行動でした。そこで天羽は、列国が中国に武器・軍用機などを供給し、軍事教官を派遣し、政治借款を供与することは日本としては黙過できないと語ったのです。

満州事変以降の中国に対する日本の政策を警戒していた欧米各国は、天羽声明に対し日本が「アジア・モンロー主義」を宣言したと猛反発しました。日本政府はあわてて天羽に修正談話を発表させ、中国の独立と権益の尊重、列国の権利および門戸開放・機会均等主義の尊重を表明するとともに、広田外相も弁明を行うなど、アジア・モンロー主義の打ち消しに追われました。

東亜新秩序声明が出た後も、欧米各国は一斉に非難に回りました。『ニューヨーク・タイムズ』は「日本は中国を支配する意図を認め他国に警告」との見出しを掲げ、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』は「日本は東アジア全体を支配する権利があると主張」と題した記事のなかで「日本・満洲・中国の政治的・経済的・文化的ブロックを創ることで、日本は東アジアに新秩序を打ち立てようとしている」と書き、『ロサンゼルス・タイムズ』も「近衛の声明は東アジアを支配しようという不変の意図の表れである」と批判を強めました。

アメリカ政府も東亜新秩序声明に対して、日本の為した声明は九ヵ国条約に違反し、中国におけるアメリカの権益及び門戸開放の侵害に当たると、日本政府に強く抗議しました。

国際世論の批判を受け、日本が天羽声明のときのように釈明に回るか否かが注目されるなか、有田八郎外務大臣は11月18日にアメリカに対して次のように回答しました。

「今や、東亜の天地において新たなる情勢の展開しつつあるの秋に当り、事変前の事態に適用ありたる観念ないし原則をもって、そのまま現在および今後の事態を律せんとすることは、なんら当面の問題の解決をもたらす所以にあらざるのみならず、また東亜恒久平和の確立に資するものにあらざることを信ずる」

太平洋戦争の起源』入江昭著(東京大学出版会)より引用

日中戦争
wikipedia:有田八郎 より引用
有田八郎(ありた はちろう)1884(明治17)年 - 1965(昭和40)年
明治-昭和時代の外交官・政治家。ベルギー・中国大使などを務めた後、広田内閣の外相となり日独防共協定を締結した。以後第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣・米内光政内閣の外相を次々に務め、外交界の長老として活躍。米内内閣では東亜新秩序の建設を推進。敗戦後、公職追放。解除後、衆議院議員に当選し、社会党に入党。三島由紀夫の小説『宴のあと』をプライバシー侵害と訴えた事件は有名。

アメリカ政府が掲げた条約や原則は、もはや有効ではなく、日本が有効と認めることもないと、有田ははっきりと言明しています。日本政府によるワシントン体制の正式な否認であり、ワシントン体制に対する明らかな挑戦です。

アメリカは有田声明を受けて12月にさらに再反論し、「日本が条約を無視して新秩序なるものを専断的に創造することを承認できない」と抗議しました。英仏からも同じ趣旨の抗議が寄せられています。

歴史を振り返ったとき、東亜新秩序声明は日本と米英との目指すものが真逆であることを世界に向けて宣言したに等しく、両国の対立を避けられないものにしたと言えるでしょう。

ただし、東亜新秩序声明を出した時点では日本側にそのような認識はありませんでした。近衛首相は列国はこの政策を正しく理解し、アジアにおける新情勢に対して再調整を図るであろうと楽観していたほどです。

歴史を知る私たちから見れば、あまりにも脳天気かつ自己中心的な認識ですが、そのような認識は近衛首相に限っていたわけではありません。日本側は東亜新秩序声明によってイギリスと対立することにはなっても、アメリカと対立する事態にはならないとする見通しを立てていました。

いったい日本は東亜新秩序の声明を出すことで、具体的になにがしたかったのでしょうか?

その4.反帝国主義の旗の下に

日中戦争
http://www.geocities.jp/torikai007/ より引用
1930年代の上海租界。イギリスの租界は中国の各地に設けられていた。

東亜新秩序を建設するためには、当たり前ながら日中戦争を終わらせなければいけません。軍事的にはすでに決着は付いていました。

重慶に押し込められた蒋介石政権の工業生産力は中国全体の6%に過ぎず、財政的にも困窮していました。しかも重慶には一千万人もの中国人難民が押し寄せ、本来であればもはや戦争を継続できる状態ではありません。

では、なぜ蒋介石政権は未だに戦争を継続できるのかといえば、欧米による支援が為されていたからです。アメリカ・イギリス・フランス・オランダなどの欧米列強は、現在のベトナム北部にあたる仏印とビルマ雲南に通じる2つのルートから、蒋介石政権に対して多大な武器援助をしていました。そのため蒋介石政権は息も絶え絶えながらも、抗日戦線を維持できたのです。

なかでも日本の軍部がもっとも目の敵(かたき)にしたのがイギリスです。欧米列強のなかでもっとも広大な租界をもち、もっとも中国に権益を有していたのはイギリスです。軍部は蒋介石政権にもっとも多大な援助を与えているのも、イギリスと見なしていました。

日中戦争を終わらせるためには、なによりもイギリスによる蒋介石政権支援を止めさせる必要があると、軍部は判断していたのです。

東亜新秩序を建設するにあたって、イギリスが中国にもつ広大な租界ほど邪魔な存在はありません。日本が東亜新秩序の基本理念に据えたのは反帝国主義です。

力のある国が弱小国を一方的に踏みにじり、植民地として搾取する帝国主義を是とする世界の在り方に対し、そこには正義はないと異を唱えたのが東亜新秩序の構想です。東亜新秩序とは脱植民地主義であり、反帝国主義である、とするのが日本側の見解です。

のちに日本は治外法権の撤廃・租界の返還を中国側に提示しますが、脱植民地主義である東亜新秩序の建設を呼びかけた以上は当然のことでした。そのことは、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に対する要求でもありました。

1938(昭和13)年6月の外務省の文書には、欧州列強の「東亜支配ノ遺物タル租界ノ返還等ヲ実施スルコト喫緊(きっきん)ノ最重要タリ」と日本政府の方針が記されています。

中国の一部を事実上の植民地とする租界を欧州列強からすべて返還させ、不平等条約を解消させることは、東亜新秩序を建設するために避けては通れないことでした。

徳富蘇峰の説いたアジア・モンロー主義は武力闘争を前提としていませんが、東亜新秩序声明におけるアジア・モンロー主義では欧州列強が中国における権益にしがみつき、あくまで手放さないのであれば、力に訴えてでも欧州列強の影響力を取り除くとする日本側の姿勢が表れています。

アジアにおける帝国主義の元締めであるイギリスと対立する覚悟は、日本には十分にできていました。そのことをもって無謀とはいえません。当時の国際情勢は、イギリスにとって過酷でした。同年3月にはナチス=ドイツ軍がウィーンに進軍し、オーストリアを併合しています。

日中戦争
https://kuruc.info/r/6/189060/ より引用
ヒトラー率いるナチス=ドイツ軍のヨーロッパ侵略が始まっていた。

ヨーロッパはナチス=ドイツの侵略によって風雲急を告げていました。足下のヨーロッパが揺らいでいる時期に、遠く離れたアジアのことにかまっていられる余裕などイギリスにないことは明らかでした。

今なら一戦交えなくとも、イギリスから大幅な譲歩を平和のうちに引き出せるに違いないといった読みが、日本側にはありました。

東亜新秩序声明によって反帝国主義の狼煙(のろし)を上げるには、絶好の機会が訪れていたといえるでしょう。

東亜新秩序を建設するにあたって最大の敵対国となるイギリスと中国の関係を絶つことは、日本にとって一刻も早く解決しなければならない重要な課題でした。

その5.平和主義は絶対的に正しいか?

東亜新秩序はアジアを支配する既存の秩序を破壊し、新たな秩序を打ち立てようとするものです。これまでの秩序を破壊する際、すでに権益を有する側が黙って引き下がることはほとんど期待できません。これまでの秩序を守りたい側と、ぶち壊したい側が武力闘争に至ることは、人類の歴史において何度も繰り返されてきました。

多くの「革命」は、この構造で成り立っています。

これまでの秩序を守ろうとする側から見れば、それを壊そうとしている側は平和に対する反逆者以外の何者でもありません。現在の秩序を壊そうと画策する者は、平和主義者や人道主義者から激しい非難を受けることになります。

当時の日本も同じです。九ヵ国条約というワシントンで定まった世界的なコンセンサスが支配している世界を日本は破壊し、新たに東亜新秩序を建設しようとしました。その意味では日本は平和を破壊する者であり、異端者です。世界の平和を脅かす者として、欧米列強から非難が集中しました。

しかし、近衛はすでに1918(大正7)年に「英米本位の平和主義を排す」と題された論文を雑誌に寄稿した際に、日本の立場からの弁明を終えています。
▶ 関連リンク 3-3.世界からノーを突きつけられた人種平等の夢-その3.英米本位の平和主義を排す

その論文で近衛は、自分たちの過去の侵略を棚に上げて現状維持を平和主義・人道主義であるとし、現在の不平等を打破しようとする勢力を封じ込めるのは、欧米の利己主義に過ぎないと批判し、英米本位の平和主義を捨てるべきだと主張しました。

首相になってからの近衛の言動とは異なり、若き日の近衛には毅然とした姿勢があふれています。この論文は当時、世界中で取り上げられ、話題を呼びました。

近衛の東亜新秩序声明は、政府の方針として「英米本位の平和主義を排す」と世界に向けて宣言するものだったといえます。

東京裁判では「平和に対する罪」という、これまで聞いたこともないような新たな戦争犯罪が設けられました。A級戦犯とは、この「平和に対する罪」で訴追された者を指します。

近衛もA級戦犯とされた一人です。近衛が生涯をかけて排そうとした「英米本位の平和主義」に近衛自身が裁かれることになるとは、運命の皮肉さを思わずにはいられません。

好き放題に侵略を繰り返し、世界中に植民地を広げ、多くの人々を奴隷状態においた不平等な世界をそのまま維持することが「英米本位の平和」の正体です。

「平和主義」は耳障りがよい言葉だけに絶対的に正しいと思いがちですが、そのなかにも実は多くの矛盾をはらんでいます。

帝国主義によって築かれた不平等な世界を破壊し、アジアをアジア人の手に取り戻そうとした東亜新秩序は、戦いに敗れたがために「(英米本位の)平和に対する罪」として裁かれることになったといえるでしょう。

その6.アメリカとの共存を求めて

ー アメリカとイギリスの違いとは ー

東亜新秩序声明によって日本にとっての理想を追いかける宣言をしたものの、日本とて闇雲に理想に走ったわけではありません。東亜新秩序を建設するとの宣言が、直ちに米英との対立を意味していたわけではないからです。

当時の日本はアメリカとイギリスとが必ずしも歩調を合わせて行動するとは判断していませんでした。そこで日本は東亜新秩序声明のあとから、イギリスとアメリカとで外交方針を大きく変えるようになります。

イギリスとは対立し、アメリカとは協調する、それが日本外交の基本方針となったのです。その違いを生んだのは、イギリス・アメリカ両国と中国との関わり方に大きな差があったからです。

イギリスはアヘン戦争以来、中国を半植民地化した帝国主義の国です。一方、アメリカは「門戸開放」を要求しただけで、中国に関しては非帝国主義の国です。

つまり、反帝国主義を旗印として掲げる東亜新秩序の建設においてイギリスは明らかな敵ですが、アメリカはけして敵ではなく、むしろ理想を実現するためになくてはならないパートナーであると、日本はみなしました。

その結果として東亜新秩序に基づく外交として日本は、反英と親米とを同時に追求することになったのです。

今日では一般的に東亜新秩序は、侵略戦争を正当化する理論としてのみ記憶されています。しかし、東亜新秩序が誕生した当初においては、あくまで反帝国主義・脱植民地主義に基づく理念でした。

イギリスとは敵対、アメリカとは協調することで東亜新秩序を建設できると、当時の日本政府と軍部は本気で考えていたのです。

ー パネー号事件に象徴される対米関係 ー

アメリカとの協調は、東亜新秩序の声明以降に急激に高まったわけではありません。日本はかねてより中国に対する特殊権益を主張してきましたが、それでもアメリカとの関係が悪化することだけは避けてきました。

たとえば、1937(昭和12)年12月に揚子江上のアメリカの砲艦パネー号を日本軍が中国艦と見誤って爆撃し、沈没させるという事件が起きています。アメリカの世論は、これに激高しました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
パネー号(パナイ号)。1928年8月30日の中国にて撮影。

ちなみにパネー号には、敗走する中国の将兵と武器が満載されていたと記述する歴史書もあります。アメリカやイギリスは中立を装いながらも、蒋介石政権を支援していました。今となってはパネー号についての真相はわかりませんが、日本側が弁明しようと思えばできる状況にあったと推察されます。

しかし、日本はアメリカとの関係が悪化することを恐れ、政府も軍部も即座に責任を認め、謝罪に回りました。いつもは強気の論調を載せる新聞でさえも、アメリカへの謝罪を前面に押し出しています。

アメリカでは日本軍が故意に爆撃をしたと認識されていただけに、事態は深刻でした。1898(明治31)年にはメイン号が原因不明で爆沈されたことから、アメリカはスペインに宣戦を布告し、米西戦争が起きています。

一触即発の危機のなか、事態の沈静化をもたらしたのは、斎藤博駐米大使によるラジオ放送でした。斎藤は訓令を待たずにすぐに全米中継のラジオ放送枠を買い取り、アメリカ国民に直接事情を説明し、誠意を尽くして謝罪しました。

日中戦争
wikipedia:斎藤博 より引用
斎藤博(さいとう ひろし)1886(明治19)年 - 1939(昭和14)年
大正-昭和時代の外交官。大使館書記官・総領事として米英に駐在、パリ平和会議・ワシントン・ロンドン両軍縮会議随員などを経て外務省情報部長。英大使館参事官・オランダ公使を経てアメリカ大使に就任。パネー号撃沈事件では政府の訓令を待たずに謝罪放送を行い、両国間の危機を救った。

日米関係調整に多大な貢献をした。外相就任の誘いがあったが健康を理由に固辞。そのままワシントンで死去。アメリカ政府は斎藤の死を惜しんで巡洋艦「アストリア」に遺骨を載せて日本本国に送ったことで知られている。

斎藤の機転の利いた行動と日本側がアメリカに対して 221万 4000ドルの賠償金を支払うことで、パネー号事件は日米関係を損なうことなく収束に向かいました。

満州や中国で著しく勢力を伸ばした日本ですが、パネー号事件での対応ぶりを見ると、アメリカに対して常に特別な注意を払っていたことがわかります。東亜新秩序の建設に際しても、アメリカを排除することなく如何(いか)に理想を実現するかは日本にとっての大きな課題でした。

ー アメリカによる対中投資への期待 ー

日本経済はアメリカに依存していました。ことに金属・機械類・石油などの輸入はアメリカに深く依存しており、それなしには日中戦争の継続さえ不可能な状況でした。

東亜新秩序にしても、アメリカに依存せざるを得ない事情は同じです。対米関係を損なう事態に陥ると、日本・満州・中国の経済は成り立ちません。となれば、東亜新秩序を建設するにあたり、アメリカが求める門戸開放を実現することは絶対に必要なことでした。

そこで日本はアメリカ資本を導入することで、東亜地域の経済開発を推し進めようと計画しました。外務省の文書にも、そうした構想が記されています。日本はアメリカの対中投資を渇望していました。

もともと東亜新秩序の構想は、東京帝国大学教授の磯山政道を中心として練り上げられました。磯山は日中戦争下、日本は中国の「住民の生存と生活の向上」のために、「合理的な開発と計画」を「樹立遂行」することを政策構想としていました。

実際、日本は経済開発のための対中投資を日中戦争の間に積極的に行いました。盧溝橋事件の前後の2年間で日本の対中投資は倍増しています。公共事業・交通通信事業・鉱工業などのインフラ投資のために、日本は台湾や韓国にしてきたことと同様に、中国の占領地に資金を惜しみなく投下したのです。

その負担は日本経済に重くのしかかっていました。だからこそ日本はアメリカの対中投資を喉から手が出るほどに望んでいました。

つまり、日本の考える「東亜新秩序」とは、あくまでアメリカ・日本・中国が経済的に密接に繋がることで、はじめて実現する構想だったのです。

ー 東亜新秩序は排他的経済ブロックにあらず ー

東亜新秩序声明は国際的には日本の門戸閉鎖宣言と受け止められていますが、日本側の真意としては排他的な経済ブロックを築くことを目的とはしていません。

同様の趣旨のことは石橋湛山も次のように指摘しています。

「支那と列国との貿易を阻害し、其の経済関係を遮断することは、取りも直さず支那の経済的発展を妨害し、従って日本の対支貿易の増進をも遅滞せしむる結果を齎(もたら)すに過ぎないからである」

日中戦争
wikipedia:石橋湛山 より引用
石橋湛山(いしばし たんざん)1884(明治17)年 - 1973(昭和48)年
大正-昭和時代のジャーナリスト・政治家。第55代内閣総理大臣。東京毎日新聞を経て東洋経済新報社に入り、自由主義的経済評論家として活躍。大正デモクラシーをリードする一人となり、植民地(満州)放棄を主張した。東亜新秩序の建設は支持。戦後は政治家となり、第1次吉田内閣の大蔵大臣を務めた後、公職追放。

追放解除ののち鳩山内閣の通産大臣を経て、総裁選挙で岸信介を破り首相となった。翌年には病気のため引退。その後、中国・ソ連を訪問し日ソ協会会長に就任するなど、共産主義諸国との親善に力を注いだ。

日本が排他的な経済ブロックに走れば中国の経済が発展しなくなるため、日中間の貿易も停滞することになり、日本にとって好ましくない結果となる、だからこそ日本はアメリカをはじめとする諸外国に対して経済的な門戸を閉ざすことを目指さない、との主張です。

石橋は諸外国との経済的な相互依存関係が拡大することによってのみ、東亜の経済圏が発展すると考えました。日本が目指したものは経済の国際化であるとし、東亜新秩序の建設を支持したのです。

思えば日本は欧米による経済ブロックによって多大な不利益を被ってきました。世界大恐慌をきっかけに欧米が保護貿易に走り、経済ブロックを作ることで日本の貿易を阻害することさえなければ、日本は満州事変を起こさなかったかもしれません。
▶ 関連リンク:4-1.満州事変はなぜ起きたのか-その2.満州は唯一の希望だった

経済的には発展途上国に過ぎず、資源に恵まれていなかった日本は、国民が生きるために貿易を必要としていました。経済先進国がブロック経済に走ることなく自由貿易へと舵を切ってくれるのであれば、通商貿易を拡大させる機会を得られるだけに、日本にとっては望むところです。

だからこそ日本は、世界経済がネットワーク化され、自由に貿易が為されることをずっと望んでいました。それにもかかわらず、自ら東亜に経済ブロックを築き上げ、自分の首を絞めるような真似をする必要など、日本にはありません。東亜新秩序から外国資本を締め出す必要など、まったくなかったのです。

東亜新秩序ははじめから、閉鎖的な経済ブロックを目指すものではありませんでした。中国を半植民地化することは頑として許さないものの、経済的には門戸を開放することで、反帝国主義・脱植民地主義に基づいた自由貿易による新たな世界秩序を東亜に打ち立てることこそが、日本が目指したものでした。

東亜新秩序が先駆けとなり、アメリカと手を携えることで世界が自由貿易で結ばれることを日本は夢見たのです。

ー 独りよがりの楽観論 ー

日中戦争を通して日本から中国への輸出も急激に増加しています。ただし、満州と同様に円で取引されていたため、どれだけ輸出が増えても外貨を獲得することにはつながりませんでした。

結局のところ、中国に対して輸出が増えれば増えるほど国際収支が悪化し、アメリカなどの第三国に対して赤字が増加するという悪循環が生じていたのです。

日中の経済提携を進めるほどに、日本経済は追い詰められていきました。国際収支を改善するためには輸出を拡大するより他に道はありません。そうなるとアメリカへの依存はますます強まることになります。

軍部もまた、東亜がアメリカ経済に依存しているだけに対米関係の調整は不可欠との認識をもっていました。

南京陥落前後の昭和一二年一二月一五日付の大本営陸軍部による日中戦争収拾案には、次のように記されている。「対米親善の為経済上の提携及輿論の好転に努め……日満支対米間の経済関係を調整利導す」。また戦時物資の動員計画を立案する企画院の昭和一四年三月のある文書も、アメリカからの「新支那建設に対する好意ある経済的協力を誘導す」と同様の方針を踏襲している。「東亜新秩序」の確立のためには、対米関係の調整がもっとも重要であるという点で、外務省と軍部との間に対立はなかった。

増補 アジア主義を問いなおす』井上寿一著(筑摩書房)より引用

なにかと対立することが多かった政府と軍部ですが、中国の門戸を開放することでアメリカとの協調を図ろうとする姿勢は共通していました。

アメリカもまた、中国の門戸開放をずっと主張してきただけに、東亜新秩序を建設することで門戸開放を実現しようとしたことへの支持はきっと得られるに違いないと、日本側は楽観していました。

それが独りよがりの思い違いに過ぎなかったことを、日本はまもなく気づかされることになります。

その7.汪兆銘工作の末路

ー 東亜新秩序声明のもう一つの目的 ー

近衛首相の東亜新秩序声明にはワシントン体制との決別の他に、もう一つの目的がありました。それは「国民政府を対手とせず」とした先の近衛声明を修正することです。

近衛は今回の声明で、「新秩序建設のために支那国民に協力を求め、国民政府といえども従来の指導方針を捨て、人的構成を改替して更生の実を挙げるならば、新秩序建設への参加をこばむものでない」と表明しました。

つまり、新秩序の建設に協力してくれるのであれば国民政府であっても受け入れると宣言することで、国民政府の新秩序体制への参加を呼びかけたのです。

曖昧(あいまい)な表現であるため日本政府の意図がどこにあるのか推測の域を出ませんが「国民政府が従来からの方針である対日抵抗と親共産政策を取りやめるのであれば、日本は国民政府と協調することで東亜の新秩序確立を目指す」との意思表示であると解釈できます。

日本側としては、呼びかけに応じて蒋介石が協力してくれることを期待するところもあったと思われます。

それと同時に日本は、国民政府のなかにも東亜新秩序を目指して日本に味方してくれる勢力が現れてくれることにも期待をかけていました。

宇垣外相による和平工作が失敗した後も、水面下で国民政府との和平工作は着々と進められました。その過程で日本側は国民党副総裁であった汪兆銘と接触することで、好感触を得ていました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
タイムの表紙を飾る汪兆銘(1935年3月18日号)

日中戦争
wikipedia:汪兆銘 より引用
汪兆銘(おう ちょうめい)1883年 - 1944年
中国の政治家。清末日本の法政大学に留学中、中国同盟会に加入。清朝要人の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが、辛亥革命の成功により釈放。広東政府要人として孫文を助け、その死後は中国国民党左派の指導者として蒋介石と対立した。まもなく共産党と絶縁し武漢政府主席となるが、蒋介石との蒋・汪合作政権をつくり、行政院長・党副総裁を歴任。

日中戦争が始まると和平救国を唱えて、日本との提携を主張。重慶を脱出し、反共と対日和平を掲げて南京国民政府を樹立するも、事実上日本軍の傀儡政権で終わった。名古屋にて客死のあと遺体は南京郊外の梅花山に埋葬されたが、国民党によって終戦後、墓を破壊された。

中国では「日本に寝返った最悪の裏切り者」と評価されているが、近年では汪を再評価する研究も発表されている。

日本に対して徹底抗戦を叫ぶ蒋介石に対し、汪は対日抗戦による民衆の被害に心を痛め、日本との和平を訴えていました。汪はことに蒋介石が推し進める焦土戦術(日本軍の戦力を弱めるために、無差別にすべてのものを破壊・焼却する戦術)に強く反対していました。そこで日本は、いつまでも埒(らち)があかない国民政府とは別に、和平派の中心人物である汪を担ぎ出すことで和平を図ろうとする汪兆銘工作を仕掛けたのです。

東亜新秩序声明は汪を支援する声明でもありました。国民政府と袂(たもと)をわかつ決意をした汪とともに多くの離反者が出てくれることを、日本政府は期待しました。

ー 汪兆銘の重慶脱出 ー

日中戦争の政治的解決を図りたいという日本側の意向に応じて、1938(昭和13)年12月18日、汪はついに重慶脱出を決行しました。

これで国民政府に代わり、汪を首班とする新たな政府を作れると日本側は喜んだのですが……。日本側の期待に反し、汪に続く離反者は現れませんでした。汪グループの数人が続いたのみで、汪に同調していたはずの地方の将軍たちは誰一人、後に続かなかったのです。

この時点で、汪兆銘工作は失敗していたといえるでしょう。近衛は汪の動きに応じて第三次近衛声明を出していますが、それは汪とかねてより打ち合わせていた内容とはほど遠いものでした。

それでも汪は12月29日、国民政府に対して対日和平を提議する通電(艶電)を発しています。

「中国の抗戦と目的は国家の生存と独立にある。正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから、抗戦目的は既に達成されたことになる」

汪は蒋介石に対して日中の和平を呼びかけましたが、「是非を転倒して敵の肩を持つもの」と批判され、売国奴として党籍永久剥奪の処分を下されました。

日中戦争
http://hkskc.blogspot.com/2013/11/ より引用
並んで立つ汪兆銘(左)と蒋介石(右)

蒋介石は日本の示した東亜新秩序の構想と汪の重慶脱出に際して、鋭い批判を浴びせています。蒋は田中上奏文を引き合いに出し、日本は中国を屈服させ全世界を征服しようとする野望を隠しているのだと、国民に対して警告を発しました。

その上で東亜新秩序は中国の独立を失わせるための口実に過ぎないと断じ、中国は日本の世界征服を防ぐために全世界のために正戦を戦っているのだと主張しました。

最後に「徳は孤ならず必ず隣あり」と述べ、世界各国が正義の戦いを続ける中国に協力してくれる日が来るという望みを捨てることなく、中国は喜んで犠牲を捧げるのだと結びました。

1940(昭和15)年3月に汪を主席代理とする南京国民政府が樹立されましたが、その実態は汪の望みとは裏腹に日本の傀儡政権に過ぎないものでした。

結局のところ、東亜新秩序に対する中国側の理解はまったく得られることなく、日中間の溝はますます深まることとなったのです。

 
参考URLと書籍の一覧はこちら

第1部 3章 泥沼の日中戦争(8/10)同情は中国に、嫌悪は日本に・・・

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(7/10)アジアから突きつけた初めての挑戦状「東亜新秩序」とは

5.泥沼の日中戦争へ

5-11.アメリカの中国観~可哀想な中国を助けることは正義!

その1.中国に寄せる同情・日本に向ける憎悪

東亜新秩序の建設によってイギリスとは敵対、アメリカとは協調の外交方針を日本は掲げました。では、アメリカは日本と中国をどう見ていたのでしょうか?

明治以降の日米関係を振り返ったとき、日露戦争の前後で大きく変化していることがわかります。日露戦争を境に吹き荒れた黄禍論によってアメリカの世論は反日へと傾き、排日移民法を成立させるなど、日本への風当たりは一気に強まりました。

1908年の白船来航のように、アメリカで対日憎悪が膨らむあまり、国際社会で日米開戦の憶測が流れるほどに険悪化した時期もあります。
▶ 関連リンク:3-2.アメリカの対日憎悪 - その3.日米開戦か、白船来航の衝撃

日中戦争当時も、アメリカ国民が寄せる対日感情はけして良好なものではありませんでした。

一方、アメリカの中国観は日中戦争を境に一気に親中へと振れています。「中国を助けなければならない」といった空気が、アメリカ中を覆っていました。

アメリカの世論を親中へと導く上で大きな役割を果たしたのが、チャイナハンズと呼ばれる中国専門家たちです。

チャイナハンズの代表ともいえるのが、『中国の赤い星』を著したジャーナリストのエドガー・スノーです。スノーは『中国の赤い星』にて中国共産党の本拠地を理想郷として描き、中国共産党の指導者である毛沢東を米国のリンカーン大統領のようだと書いています。

日中戦争
エドガー・スノー:中国近現代史 より引用
エドガー・スノー1905年 - 1972年
アメリカのジャーナリスト。コロンビア大学卒業後、世界一周の旅に出る。途中で立ちよった上海で中国に魅了され、上海を拠点にアメリカの通信社や新聞社の特派員として中国およびアジア報道に携わる。やがて中国共産党の根拠地陜西省保安に潜入。毛沢東らとの会見に成功。その時の体験をまとめたルポルタージュ『中国の赤い星』を出版。中国共産党を美化し、その実態と主張を全世界に紹介した。

日米開戦直前に著した『アジアの戦争』は、アメリカ国内の対日憎悪を煽った。共産党の実態を知るに至り、晩年は中国に対して幻滅を抱いていたと伝えられる。遺言に基づき遺灰の一部は北京大学に埋葬された。

奴隷解放を実現したリンカーンと貧農解放を目指す毛沢東とを重ね合わせることで、共産主義を毛嫌いするアメリカ人を親中へとなびかせることに心を砕いたことがわかります。

中国とアメリカを東西のよく似た双子の国として描くことで、スノーはアメリカ内に親中の空気を作り出すことに成功しました。

ちなみにスノーは骨の髄までと言えるほどに日本人を憎悪していました。日米開戦直前の1941(昭和16)年に著した『アジアの戦争』は、アメリカ内の対日憎悪をあおることに貢献しています。

「『アジアの戦争』は…頭の先から爪先に至るまで、ひたすらに『軍国主義日本』を憎悪し、ただ憎悪するだけではなく、アメリカ政府がその『中立政策』を捨て、世界平和の敵・日本に対して、武力介入を余儀なくさせることを目的とした『政治的』な著作だった…ここで使われた形容詞、エピソード、結論などは、常識をこえた激しいものであり、特に日本に対しては、『日本という国を、この世から抹殺する』という目的がはっきりしている…アメリカ人が『アジアの戦争』を読めば、アメリカはすぐにでも日本に宣戦布告をし、中国を救わなければならないという気持ちにさせられる。その意味では『アジアの戦争』は、完璧といってもいい、見事な内容になっていた」

新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明著(飛鳥新社) より引用

『アジアの戦争』では南京大虐殺についてもページが割かれており、国民党中央情報部顧問であったとされるベイツの情報に捏造(ねつぞう)を加えて誇張していることが指摘されています。

日中戦争
南京虐殺( 5-2 )― 欧米人が残した虐殺数 (その2) ― より引用
マイナー・シール・ベイツ1897年 - 1978年
アメリカの歴史学者。オックスフォード大学を卒業後、基督会によって宣教師に任命され南京の金陵大学の歴史学教授に就任。知日派で日本人クリスチャンに知人も多く、日本社会を分析した論稿も多い。家族で野尻湖畔を訪れていた際、日中戦争の開始を知り単身で南京に戻る。南京において民衆救済活動に従事し、南京安全区国際委員会の委員となる。

著書で南京虐殺事件にて4万人虐殺を主張し、東京裁判では市民1万2千人が虐殺されたと主張した。国民党の顧問であったとの説もある。南京虐殺において欧米向けに発信された情報の多くはベイツの情報をもとにしているとされている。ベイツの情報を巡る真偽については、諸説あり。

『アジアの戦争』は東京裁判における検察側冒頭陳述にも使われています。親米反日の世論を作り出す上で、大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

憎き日本人・親しみやすい中国人といったイメージは、スノーたちチャイナハンズを通してアメリカ国民に巧妙にすり込まれていったのです。

文学作品も親中の空気を盛り立てました。その代表はノーベル賞を受賞したパール・バックの小説『大地』です。清朝末期の素朴な農民一家を描いた『大地』は、中国への深い共感を呼び込みました。

日中戦争
wikipedia:パール・S・バック より引用
パール・S・バック 1892年 - 1973年
アメリカの作家。宣教師の両親と共に中国に渡り少女時代を過ごす。南京大学で英文学を講じる傍ら、執筆活動を始める。中国農民の苦闘の生活を描いた『大地』でピューリッツア賞受賞。『息子たち』『分裂せる家』とともに3部作で『大地の家』を構成。アメリカ定住後、1938年に『大地』の業績によってノーベル文学賞受賞。

素朴で道徳的な中国のイメージは写真雑誌や映画でも強調され、アメリカ内を親中ムードで埋め尽くしたのです。

『破壊された中国』や『中国の戦い』などの映画やドキュメントが大量にハリウッドで制作され、学校の教室での上映を通して、勇敢で働き者の中国人がアメリカの友人であるというイメージをばらまきました。

そうした結果、1930年代後半に行われた世論調査において93%のアメリカ人が中国に同情を寄せていたと、パトリシア・ネイルズ著『へンリー・ルースの時代と中国イメージ』に記されています。

こうして、「軍事強国である日本に侵略されている可哀想な中国人を助けることは正義である」とするイメージは、次第にアメリカ国民の意識のなかに染みこんでいったのです。

それにしても、なぜここまで一方的な世論が構築されたのでしょうか?

「侵略者である悪の帝国日本、なにも悪くないのにいじめられている中国」、こうした対照的なイメージの発信源となったのは、先に紹介した田中上奏文でした。

その2.世界帝国を目指す日本の野望

ー 田中上奏文が果たした役割とは ー

田中上奏文は満州事変後、アメリカでもセンセーショナルに取り上げられました。上海の月刊誌『チャイナ・クリティック』に英語版にて田中上奏文の全文が掲載されると、そこから抜粋した『日本の中国・米国・世界征服計画』と題されたパンフレットが大量に作られ、アメリカの大学や公共施設、新聞社などに広く行き渡りました。

田中上奏文が偽書であるという認識はアメリカ社会にもあったものの、計画通りに満州の侵略が行われたことで、もはや本物か偽物かという議論を超えて、多くのアメリカ人にとって日本による世界征服は現実の脅威として受け取られたのです。

日中戦争
http://happylifelaboratory.blog.fc2.com/ より引用
The Tanaka Memorial(田中上奏文)はアメリカでも盛んに読まれた。

フランクリン・ルーズベルト大統領もまた、田中上奏文には真実が書かれていると信じ込んだ一人です。ルーズベルトは普段から偏見に満ちていたことが数々の伝記や証言から明らかになっています。日本人に対して、ルーズベルトは偏見を持ち続けました。

日中戦争
wikipedia:フランクリン・ルーズベルト より引用
フランクリン・ルーズベルト1882年 - 1945年
アメリカの政治家。第32代大統領(1933年 - 1945年)。第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは従兄に当たる。名前のイニシャルをとってFDRと呼ばれることも多い。アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領であり、アメリカ政治史上で唯一4選された大統領。ウィルソン大統領のもとで海軍次官となり、アメリカ海軍の拡張に尽力。

ニューヨーク州知事を経て大統領就任。世界恐慌に際してニューディール政策を敢行し、アメリカ経済を建て直す。「中国びいき」で知られ、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行った。シカゴにて「隔離演説」を行う。一方、日本に対しては敵がい心を剥き出しにした徹底した対日強硬策をとり、対日政策として石油を売らない経済制裁を実施、対日開戦の直接のきっかけとなるハルノートを突きつけた。日本の真珠湾攻撃を契機に第二次大戦に参加。史上最大の軍拡・軍需経済・戦時経済の著しい増大によってアメリカ経済を完全に回復させた。

大戦中は日系アメリカ人強制収容を行った。チャーチル・スターリンとのヤルタ会談では、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に日ソ中立条約の一方的破棄によるソ連の参戦を促した。第二次世界大戦の勝利を目前に脳卒中で倒れ死亡。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。しかし、日米開戦に至る陰謀論や人種差別者であったこと、及びソ連共産党への友好的な態度には批判が絶えない。

その偏見は、生まれた環境に基づいていました。もともとルーズベルトの祖父は茶・絹・アヘンなどを扱う中国貿易で財を成した人物です。ルーズベルトは幼い頃より中国製の家具調度に囲まれて生活し、中国人についての良いイメージをすり込まれてきました。

満州事変後のスティムソン・ドクトリンに際して、「先祖が中国貿易をやってきたので、つねに中国の人民にもっとも深い同情を抱いてきたから、どうして日本に対抗して中国を支持しないなどと言うことができるだろうか」と述べ、スティムソンを支持しています。

日中戦争
wikipedia:ヘンリー・スティムソン より引用
ヘンリー・スティムソン1867年 - 1950年
アメリカの政治家・外交家・弁護士。陸軍長官、フィリピン総督および国務長官を歴任。日系人の強制収容の推進、また原子爆弾の製造と使用の決断を管理した。原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明。これが原爆使用正当化の定説(いわゆる「原爆神話」)となった。
もちろんそれは、事実に基づかない神話に過ぎない。

ルーズベルトが抱く個人的な親中反日のイメージは、アメリカと日本を日米開戦へと導くことになります。これについては、のちの章で詳しく取り扱います。

政策の決定権を握るアメリカ大統領が偏見に染まっていたことは日本にとっての不幸ですが、田中上奏文を信じ、日本が中国を手始めにオーストラリアなどを侵略し、最後にアメリカに魔の手を伸ばすことで世界征服を成し遂げようとしている、との危機感を抱く知識人は、当時のアメリカには数多くいました。

中国側も積極的に田中上奏文を利用することで「日本帝国の世界征服を阻むための正義の戦いをしている中国」のイメージ作りに励んだこともあり、アメリカ国民は日本と中国が戦争に至った経緯などまったく知ることなく、親中反日へと盲目的に流されていったと言えるでしょう。

プロバガンダにかけては、中国は日本をはるかに上回っていました。ことに蒋介石夫人の宋美齢が果たした役割には大きなものがあります。

ー 残酷な日本人とか弱き宋美齢 ー

宋美齢は孫文の後妻の妹にあたります。彼女の父親のスンはアメリカ帰りの宣教師でした。蒋介石はキリスト教徒である宋家の一族をアメリカに送り、大統領やその側近、米議会有力者と接触するロビー活動を行わせています。

日中戦争
wikipedia:宋美齢 より引用
宋美齢(そう びれい)1897年(1898年、1901年など諸説あり) - 2003年
中国・台湾の婦人政治家。蒋介石夫人。孫文夫人の宋慶齢・実業家の宋子文の妹。両親とも熱烈なクリスチャンの家庭で育つ。アメリカのウェスリアン女子大学卒業。帰国後、家族の反対を押し切って蒋介石と結婚。結婚後は政治面で夫の片腕となり、また宋家の財力をもって蒋を助けた。軍閥との戦争や第一次国共内戦では前線の兵士を慰問し、傷病兵の看護の陣頭指揮にあたる。

西安事件の際には宋子文とともに西安に飛び、周恩来と交渉して蒋の釈放に成功。日中戦争中に訪米し、巧みな英語を駆使することでアメリカ国会での演説を手始めにアメリカ各地を遊説。中国支援の世論を喚起し、アメリカ政府から多大の対中援助を引き出すことに成功した。第二次国共内戦の劣勢のなか、再び訪米してアメリカ政府に内戦への介入を迫ったが失敗。

中華人民共和国が誕生すると台湾に逃れた蒋の後を追い、中華婦女反共抗ソ連合会主席、国民党中央評議委員会主席団主席などを歴任。たびたび訪米し中華民国支持の世論を喚起しては、アメリカ政府から多大なる援助を引き出した。蒋の死後、アメリカに定住。

こうした地道な工作こそが、親中反日の世論をアメリカに作り上げることに成功した要因の一つです。

ことにアメリカの名門ウェルズリー女子大出身で生粋のクリスチャンである宋美齢の米国訪問は、一般庶民の心をつかみました。1942(昭和17)年11月に訪米した宋美齢は翌年の2月18日に全議員総立ちの拍手に迎えられ、アメリカ議会で演説をしました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
アメリカ連邦議会で演説を行う宋美齢(1943年)

10歳から19歳までアメリカで教育を受けていた宋美齢の英語は完璧です。チャイナドレスを着て美しい英語で語りかける宋美齢の優雅な立ち居振る舞いに、アメリカ人の多くは魅了されました。

ルーズベルト大統領夫人のエレノア・ルーズベルトも、その一人です。彼女は自伝に綴っています。

「演説は一生、忘れることはないでしょう。チャイナドレスの彼女が大男に囲まれ、演壇に向かう登場ぶりは劇的なものがあった。そして、彼女はそれを承知しており、その効果を最大限につかった」

日中戦争
wikipedia:エレノア・ルーズベルト より引用
エレノア・ルーズベルト 1884年 - 1962年
アメリカの政治家・婦人運動家・評論家・文筆家。第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻。リベラル派として高名だったが、左翼運動や共産主義運動に対しては批判的であり明確に一線を画していた。夫フランクリンの政策に対して大きな影響を与えた。ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものとされている。

夫フランクリン第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対。夫の死後はアメリカの国連代表を務めた。今日でも彼女は「人権擁護の象徴」として、多くの尊敬を集めている。

宋美齢の演説が終わると、拍手喝采が一斉に議会を包み込みました。宋美齢によって、これまで中国のことなどまったく知らなかったアメリカ人さえも、中国人に対する親近感を覚えるようになったのです。

中国支援募金の講演旅行では、宋美齢が向かうところはどこでも満員の聴衆を集めました。ラジオや新聞は連日、宋美齢の動向を報じ、彼女宛てのファンレターは日に数百通に達したといわれています。

あの残酷で野蛮な日本人と戦っている美しくか弱い宋美齢のイメージは、全米のアメリカ人に共有されました。

タイム誌は「これ以上愛くるしい女性はいない」と宋美齢を絶賛しました。1944(昭和19)年の時点で116万部を売り上げる週刊誌『タイム』と400万部を超える写真週刊誌『ライフ』は、チャイナハンズの一人として知られるヘンリー・ルースが創刊した雑誌です。

日中戦争
10 крупнейших медиа-магнатов в истории より引用
ヘンリー・ルース 1898年 - 1967年
アメリカのジャーナリスト・出版業者。中国の山東省に宣教師の息子として生まれ、14歳まで中国で過ごす。エール大学卒業後、雑誌『タイム』を創刊。他にも『ライフ』『フォーチュン』『スポーツ・イラストレーテッド』『ピープル』等の多くのメディアを誕生させた。それらのメディアを駆使し、徹底して日本叩きの論陣を張ることでアメリカ人の反日感情を煽った。

そのためアメリカでは「日本を真珠湾に追い落とした男」とも呼ばれている。日米開戦前にルーズベルト大統領のブレーンとなり、アメリカの対日政策に影響を与える。戦後、中国に共産党政権が誕生すると、日本を西側に取り組むために方針を180度転換させ、親日の特集を組むなど日米同盟の必要性を強調した。自らのメディアを通してアメリカによる日本人親米化作戦に貢献。

ルースは中国に派遣されたアメリカ人宣教師の子として中国で生まれました。それだけに中国人に対する思い入れが強く、雑誌のスタンスとして親中反日を貫きました。

タイム誌では恒例となっている「マン・オブ・ザ・イヤー」にルースは蒋介石を三度も選び、表紙の顔に九回も起用しています。徹底して中国寄りの情報を流すことで、アメリカの世論に影響を及ぼしました。

日中戦争
ウィキペディア より引用
『タイム』誌の表紙を飾った宋美齢と蒋介石(1931年)

そうした記事もまた、宋美齢を含めた中国側のロビー活動の成果といえるでしょう。

ちなみに宋美齢はアメリカ滞在中に次第に馬脚を現し、貴族趣味に彩られた私生活が暴露されたことから、アメリカ人が抱いていた清貧な中国人のイメージを崩すきっかけにもなりました。講演を通して集められた寄付金が毛皮や宝石、高級ホテルの支払いに費やされているのではないかとの疑惑も取り沙汰され、アメリカに満ちていた親中の雰囲気に水を差すことになったのです。

ー 軍事独裁国か民主主義国か? ー

中国側のロビー活動を通して、真実とはほど遠い中国観がアメリカ人の間に浸透していきました。中国をアメリカ同様の民主主義国と捉えることも、真実とはかけ離れています。

ルーズベルトの信頼が厚かったエヴァンス・カールソン海兵隊大尉は講演中に次のように述べています。
「東アジアが軍事独裁国家の支配するところとなるかどうか、また中国の民主主義の芽生えが花と開くかどうか、それは日中戦争の結果で決まる」

日中戦争
wikipedia:エバンス・フォーディス・カールソン より引用
エバンス・フォーディス・カールソン(1826年 - 1947年)
アメリカの軍人。フランクリン・ルーズベルトと懇意にしていた。中国の奥地で戦っている毛沢東のゲリラ戦術に深い関心を示し、海兵隊にゲリラ部隊の創設を進言した。フランクリン・ルーズベルトの長男であるジェームズ・ルーズベルトとともにコマンド組織として海兵奇襲部隊2部隊を立ち上げ、大隊長に就任した。日本軍とのガダルカナルの戦いにて奇襲によって勝利に貢献。サイパンの戦いにて負傷し退役。

大戦中の日本を軍事独裁国家、あるいはナチス同様のファシズム国家と見なす考え方は今日でも根強いものがあります。

しかし、果たして当時の日本を軍事独裁国家、あるいはファシズム国家と呼べるのかについては、多くの疑問が提起されています。

戦時中であっても日本には国民の選挙で選ばれた議員からなる国会があり、国家予算は議会が握っていました。当時の現役軍人には選挙権・被選挙権さえ与えられていません。

比較ファシズム研究の権威スタンリー・ペイン米ウィスコンシン大名誉教授は『ファシズムの歴史1914-1945』のなかで、次のように記しています。

昭和戦前期の日本について、「東条英機は決して軍事独裁者ではなかった。極右勢力はその内閣が弱体で統制を欠いていると批判していた。東条の個人的な権力はチャーチルやルーズベルト以下だったのではないか」と述べている。

日本はファシズム国家に非ず、共産中国こそファシズム国家だより引用

さらに、イスラエルのベン=アミー・シロニー・ヘブライ大学教授の著書から「(日本は)軍事的には枢軸(独伊)側と結びついていたが、民主主義の側で戦ったとされるソ連や国民党中国より、日本社会の自由の度合いは高かった」との文を引用し、賛意を表明しています。

著名な歴史家であるデヴィド・レイノルズ英ケンブリッジ大学教授も、『ミュンヘンからパール・ハーバーへ』(2001、未邦訳)の中で、「ファシズムという用語が日本に当てはまるかは、明らかに疑問である。唯一のカリスマ的な指導者というのは存在しなかったし、軍や官僚機構における従来のエリートが政治をコントロールしていた。多くの点で、第二次大戦中の日本は、『民主陣営』で戦ったソ連や国民党中国より統制の度合いが低かった」

日本はファシズム国家に非ず、共産中国こそファシズム国家だより引用

こうした見識からも明らかなように、当時の日本を軍事独裁国家、あるいはファシズム国家と一方的に見なすことには問題があるといえるでしょう。

軍部が台頭したことはたしかですが、民主主義は守られていました。国民の暮らしに様々な制限が課されたのは、単に戦時体制が敷かれていたからに過ぎません。アメリカにしてもヨーロッパ諸国にしても、戦時中は平時とは異なる政治体制下に入るのは、日本となんら変わりません。

たとえばアメリカは戦時中に、主に西海岸に住む12万人の日系人を内陸部の収容所に強制移住させています。戦時体制が敷かれると民主主義国といえども、非民主的な処置が平然と行われることが一般的です。

日中戦争
wikiwand.com より引用
強制収容所内にて合衆国旗への「忠誠の誓い」をさせられる子供たち(1942年4月)

戦時体制にあったからと言って、すぐに軍事独裁やファシズムと見なすのは間違いです。

ちなみに日本には強制収容所自体が存在しませんでした。少なくとも強制収容所については、日本の方がアメリカよりもファッショ(独裁的国家主義)度は小さかったといえます。

では、当時の中国にカールソンが説くような「民主主義の芽生え」はあったのでしょうか?

国民党を率いた蒋介石にしても、共産党を率いた毛沢東にしても、一般的に見るならば独裁者と見なしても違和感はありません。

貧農の若者たちを無理やり戦争に駆り出し、非人道的に戦場に送り、住民が巻き添えになろうと構わずに焦土戦術を徹底し、黄河や揚子江を決壊させて何十万、何百万もの人命を奪う行為に、民主主義のかけらさえ見出すことは難しそうです。

ルースはタイム誌で蒋介石を「自由中国の象徴」と讃えましたが、中国の実情を正しく理解してはいなかったようです。

日中戦争
http://modernchina.rwx.jp/magazine/18/ma.pdf より引用
「中国のナポレオン」として登場した蒋介石、『タイム』1936年11月9日号

のちにイェール大学学長を務めた歴史学者ホイットニー・グリスウォルドは、蒋介石政権はファシスト独裁政権であると1938(昭和13)年に警告を発しましたが、そうした声は極めて少数派に過ぎず、田中上奏文が作り上げた「軍事侵略国家日本」のイメージを損なう情報は、そのことごとくが黙殺されました。

アメリカが中国の真の姿に気づかされるのは、共産党が中国を支配した後のことでした。

その3.結局は算盤勘定がすべて

ー 衝突したのは感情ではなく国益だ ー

中国側によるロビー活動やプロバガンダがアメリカで親中反日の世論が沸き起こる要因になったことはたしかですが、もっと大きな要因として、アメリカ政府がそれを望んだことをあげられます。

では、なぜアメリカは親中反日の世論を作りたかったのでしょうか?

そこには経済の問題が大きく絡んでいます。そのことを端的に示す、ひとつのエピソードを産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班が著した『ルーズベルト秘録』のなかから紹介しましょう。

ルーズベルトとハーバード大で学友だった松方乙彦(公爵松方正義の七男)は、悪化する一方の日米関係を何とか好転させようとルーズベルトに会うことを決意し、1934(昭和9)年にホワイトハウスを訪ねました。その直後、松方は長い手紙をルーズベルトに送っています。

手紙の中で松方は満州のことにもふれ、次のように綴っています。
「日本に併合の意図はなく、問題の多くは中国の内政不安が原因であり、共産主義運動が不安定を生んでいる。米国は中国に肩入れし過ぎで、日本に不当に厳しい」

それに対する回答は、国務省中国専門家で極東部長のスタンレー・ホーンベックを通して行われました。アメリカ側は松方とルーズベルトの面談、及び松方の手紙を個人レベルの旧交を温めるものとは見ておらず、あくまで日本政府と結託した外交の一環と見なしていたためです。

日中戦争
wikipedia:スタンリー・クール・ホーンベック より引用
スタンリー・クール・ホーンベック1883年 - 1966年
アメリカの外交官。ウィスコンシン大学で政治学の助教授および准教授を経て、国務省にて外交政策に従事。主にアメリカの極東政策の立案について責任を負った。経済顧問室技術専門官・極東部長・国務長官特別顧問・極東局長・国務長官特別補佐官・駐オランダ大使を歴任。中国通ではあったが日本についての知識は乏しかったにも関わらず、日本について断定的な判断を下すことが多く、日本の言い分や事情を極力無視した。

日本に対する石油輸出禁止については国務省内でも戦争の可能性を危ぶむ声が上がっていたが、日本の能力を蔑視し、開戦の懸念を一蹴した。一部ではホーンベックの願望が平和の維持ではなく、戦争の勃発にあったと見なされている。

ホーンベックは答えています。

〈米国が中国に好意的で日本に差別的というのは歴史に照らして大間違いだ。日米関係八十年で、米国は日本に特に好意的で中国を嫌った時代があったはずだ。だが日清戦争、とりわけ日露戦争後、日本は満州で特権的な地位を得ようとしたことがきっかけで米国は姿勢を変えた。競争相手でなければ仲良くなれるが、道に立ちはだかったり、好戦的な者と敵対するというのは当たり前のことだろう〉

このときのホーンベックの回答は、アメリカの国益を前面に押し出すものでした。

松方はアメリカの「日本嫌い・中国好き」という感情こそが日米関係を悪化していると指摘しました。それは松方に限らず多くの日本人が感じていることでした。

しかし、ホーンベックはそれを否定します。日米関係が悪化した根本的な理由は単なる感情論ではなく、満州をめぐるアメリカの国益が日本と敵対しているからこそだと反論しました。それは満州で権益を得たいと望んでいるアメリカの財界人の本音を代表するものでした。

〈米国のジョン・ヘイ国務長官が1899年と翌年の二度にわたって出した門戸開放宣言は自由競争を掲げ、欧州列強や日本の中国進出を牽制(けんせい)する狙いがあった。1922年のワシントン会議で調印された九カ国条約はその門戸開放を成文化したものだ。日露戦争後、中国大陸進出を強める日本は米国の中国政策と真っ正面からぶつかった〉

日中戦争
wikipedia:ジョン・ヘイ より引用
ジョン・ヘイ 1838年 - 1905年
アメリカの政治家・外交官・作家・ジャーナリスト。駐イギリス大使の後、マッキンリーとセオドア・ルーズベルト両大統領の下で国務長官を務めた。貿易活動において中国市場に割り込むことを目的に、門戸開放・機会均等・領土保全の三原則(ジョン・ヘイの三原則)を中国に進出しているヨーロッパ列強に対して示した。帝国主義政策を推進。

アメリカにとって満州の権益は、喉から手が出るほどに欲しいものでした。満州をめぐる日米の対立については、「4-3.満州事変までのいきさつ - その1.満州をめぐるアメリカとの対立」 にて詳しく紹介しています。

ー 中国獲得は我が国の明白なる天命である ー

日中戦争
http://histori-ai.net/archives/717 より引用
マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)を絵画化したもの、インディアンを虐殺し土地を収奪する行為を「明白なる天命」が正当化した。アメリカの野望は今度は中国大陸へと向けられた。

アメリカがモンロー宣言によってテキサスやカリフォルニアなどの西部諸州を次々と侵略することで版図を広げ、南北戦争を経てフロンティアの消滅を宣言したのは1890(明治23)年のことでした。

アメリカの領土拡大の欲望は、次に太平洋に向かいました。ハワイを武力を背景に併合し、米比戦争でフィリピンを植民地とし、次の標的として定めたのが中国大陸です。

1900年(明治33)年、ベバレッジ上院議員は米上院での演説で次のように語っています。

「われわれは東洋におけるわれわれの機会を放棄しない。われわれは、神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたって、われわれの役目を放棄しない。……今後、我が国最大の貿易はアジアと行われるに違いない。太平洋はわれわれの大洋である……中国はわが国本来の消費者である」

新 歴史の真実』前野徹著(講談社)より引用

ところがアメリカはアジア侵略に出遅れたため、中国大陸のほとんどはすでにイギリスなどの欧州列強が強固な足場を築いたあとでした。列強と対抗して中国に割り込むほどの軍事力は、新興国に過ぎない当時のアメリカにはまだありません。

そこでアメリカが目を付けたのが、まだ列強に分割されていないまま残っている満州でした。満州の気候と風土がアメリカ中西部と似ていることも好都合でした。

当時、満州を実質上支配していたのはロシアです。そんなときに起きたのが日露戦争でした。ロシアに満州を独占されてしまうと、アメリカの満州進出の目論見が破綻してしまいます。だからこそアメリカは日本を支援したのです。

ところが日露戦争に勝った日本が今度は満州を支配することになり、アメリカの満州進出はまたも阻まれることになりました。仕方なくアメリカは門戸開放を盾に九ヵ国条約を結び、日本や欧州列強のように中国に領土は確保できないものの、経済的な権益だけは得ることに成功しました。

ホーンベックは「日本の中国における影響力の全てを、一度に排除することは不可能なことであり、一枝ずつ徐々に折り捨てていかなければならない」と、アメリカの基本的な方針について語っています。

その後もアメリカは張学良と結び、米国資本の導入によって満鉄併行線を敷くなど、満州に食い込もうと画策しました。それらの努力がすべて水泡に帰したのが満州事変です。

日中戦争
wikipedia:張学良 より引用
張学良(ちょう がくりょう) 1901年 - 2001年
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。張作霖が日本軍により爆殺されると、後継者として東北の実権を掌握。蒋介石の国民政府と提携するにいたり、東北全土で青天白日旗を掲揚した。満州事変で地盤を喪失後、内戦停止と抗日を主張して蔣介石と対立し、西安事件を起こした。第二次国共合作後、蒋によって監禁され、台湾に幽閉された。1990年軟禁を解かれ、長寿を全うしてハワイ州ホノルルにて没。

こうして満州をめぐって両国の国益がぶつかり合うことで、日米関係は悪化の一途をたどったのです。

ー 親中反日の世論が作られた理由とは ー

問題は両国の国益の中身が大きく異なることでした。アメリカが中国大陸に寄せる国益は、専ら経済的な面に限られます。いわば算盤勘定です。しかも、それほど切実な事情があったわけでもありません。

不況から脱却するために中国市場をもっとも重要なものとアメリカが位置づけていたことはたしかですが、それがアメリカ国民の生存を脅かすほど重要なものでないこともたしかです。

しかし、日本にとって満州は生命線でした。欧米の経済ブロックによる締め付けにより、満州を確保しなければ国民の生存が脅かされる状況に陥っていました。また、日本にとって中国は地理的にも歴史的にも経済的にも密接に関係してくる隣国であり、アメリカとは異なり、中国市場は日本国民の死活問題に深く関わっていました。
▶ 関連リンク:4-1.満州事変はなぜ起きたのか - その2.満州は唯一の希望だった

モンロー主義を唱えたアメリカが、まったく同じ論理でアジア・モンロー主義を掲げる日本に対して理解を示すどころか、その行く手を阻むとは、日本にとって理解できないことでした。

アメリカは算盤勘定から中国市場を欲しました。それを妨害する日本は、排除すべき存在でした。東亜新秩序はアメリカを市場から締め出すものではないと日本側は説明するものの、信頼に足るものではないとアメリカは判断していました。

アメリカが求めたのは、九ヵ国条約への日本の復帰です。それは日本にとってあり得ない選択でした。満州建国は九ヵ国条約違反として批判されています。満州事変以前の状態に戻ることは日本国民の生存を脅かす選択となるだけに、応じるわけにはいきませんでした。

日本が譲らない限り、日米の相反する国益の主張がやがて武力闘争に発展することは、アメリカにとって自明のことでした。親中反日の世論は、アメリカ政府のこうした目論見のなかで育っていったのです。

その4.アメリカが読み違えた共産主義の脅威

ー アメリカが信じた神話 ー

蒋介石は諸外国から中国への支援を得るために、特派員たちに中共のことを共産主義と呼ばないでくれと頼んでいます。1939(昭和14)年にはドイツ人新聞記者に「中国に共産主義者は一人も残っていない」と述べ、共産主義を毛嫌いする欧米に悪い印象を与えないように心を砕いていました。

蒋介石の苦労は報われました。アメリカは中国における共産主義の脅威を、まったくといってよいほど気にかけなかったからです。当時のアメリカは中国共産党の存在をあまりにも軽視していました。

大東亜戦争中に中国戦線でのアメリカ軍最高司令官を務めたアルバート・ウェデマイヤー将軍が「中国共産主義者は国民の福祉をねがう、単なる土地制度改革者にすぎないという風評は、当時、アメリカに広く宣伝されていた」と語っているように、中国共産党は民主主義を行う上で無害であり、平和を愛する集団に過ぎないと大半のアメリカ人が見なしていました。

日中戦争
wikipedia:アルバート・ウェデマイヤー より引用
アルバート・ウェデマイヤー1897年 - 1989年
アメリカの軍人。最終階級は大将。蒋介石の参謀長となり、中国戦線およびビルマの戦いにおいて米陸軍と国民革命軍を指揮し、日本軍と対峙。大戦後の冷戦期には、ベルリン封鎖に対する空輸作戦の主要な支持者となった。反共主義者の大物の一人としてもてはやされ、アメリカ各地で講演活動を行った。

『中国の赤い星』を著したエドガー・スノーも毛沢東の支持者たちを「共産主義者というよりも農本主義者の集団だ」と強調しています。スノーらの啓蒙によってアメリカ国民の大半は、中国共産党を平和的な集団と見なしていました。

後年、エドガー・スノーは自伝『始まりへの旅』にて、次のような反省の弁を述べています。

「戦争中、アメリカ人は中国のことを世界の民主主義国の一画と語り、統一した国家のように扱ってきたが、実は連合国の間だけで通用する神話のようなものだ。国民政府が仕方なく共産主義者を受け入れたのは先刻承知のことで、実際、共産主義は禁じられ、党員は死刑という法律が厳然としであったのである」

『ルーズベルト秘録〈下〉』産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班著(産経新聞ニュースサービス)より引用

中国共産党の存在に目をつぶり、中国を民主主義の国であるかのように扱ったことを、スノーは「神話のようなもの」と語っています。それはスノーばかりでなく、当時のアメリカの知識人のほとんどに共通して見られる見解でした。

戦後、中国共産党の真実の姿が明らかになったことを受けてスノーは、『中国の赤い星』を書いたことを後悔していると妻に語ったと伝えられていますが、後の祭りです。

中国共産党の本当の姿を、当時のアメリカは直視しようとはしませんでした。アメリカの経済的な利益を優先するあまり、中国は正義・日本は悪という固定観念に縛られ、民主主義とは相反する共産主義の脅威から目を逸らしたのです。

ルーズベルトは驚くほど共産主義の脅威について無関心でした。1944(昭和19)年にはソ連について、こう語っています。

「余としては、ソ連はまったく友好的であると考える。ソ連はヨーロッパの残りの地域を全部むさぼり取ろうとはしていない。ソ連は他国を支配するような考えは少しも持っていない。多くのアメリカ人はソ連はヨーロッパを支配しようとしていると心配しているが、余個人としては、この心配がなんら根拠あるものと考えない」

第二次大戦に勝者なし〈下〉ウェデマイヤー回想録』アルバート・C. ウェデマイヤー著(講談社)より引用

ルーズベルトの考え方が完全な間違いであったことは、その後の歴史が証明しています。ルーズベルトがソ連や中国の共産党の実態について無知であったことは、世界にとって不幸なことでした。

ルーズベルトもまた、幻想としての神話を見ていたといえるでしょう。

ー マクマリーが警告した日米戦争 ー

アメリカのなかにもソ連や中国の共産党について警鐘を鳴らす声はありました。たとえばアメリカ公使として北京に駐在していたジョン・マクマリーです。

日中戦争
wikipedia:ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー より引用
ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー 1881年 - 1960年
アメリカの外交官・政治家。国務省の外交部に入り、日本の東京領事館で参事官となる。国務省極東部長・国務次官補を経て駐中国公使となる。中国で実際に起きていることを政府に伝えるも、ことごとく無視された。後に『メモランダム』を著し、日中関係についての鋭い論評を世に問うた。

事態はまさにマクマリーの予見した通りに進んだことから、その卓見ぶりは高く評価された。後に駐エストニア公使として外交官に復帰し、各国大使を歴任した。

マクマリーは1935(昭和10)年に『メモランダム』を著し、日本と中国について鋭い論評を寄せています。日本では米国海軍大学教授のアーサー・ウォルドロンがマクマリー・メモランダムを解説付きで紹介した『平和はいかに失われたか』が出版されています。

『メモランダム』にてマクマリーは満州事変が起きた原因として中国が九ヵ国条約を無視した政策をとったことをあげ、それについてアメリカは中国をいさめるべきであったにもかかわらず、中国に理解を示したことで日本の武力介入を招くことになったのだと主張しました。

満州から近い北京から日中の間で起きていたことを第三者の視点から冷静に見ていたマクマリーが下した論評です。しかし、満州事変を日本による中国への一方的な侵略としか考えていないアメリカ人にとって、マクマリーのような見解は異端でした。

中国は被害者であり、日本は中国を痛めつける悪役であると信じるアメリカ人が、マクマリーの声に耳を傾けることはありませんでした。

さらにマクマリーは、このままアメリカが親中反日の姿勢を改めず、日本の言い分を無視し続けるのであれば、いずれは日本とアメリカの間で戦争が起きるとも警告しています。

1935年の時点で日米戦争が起きるかもしれないといった認識は、当時のアメリカ社会にはありません。マクマリーの先見性は評価されるべきでしょう。

日米戦争が起きればアメリカは勝利するだろうが、そのことがアメリカになんの利益ももたらさないことさえ、マクマリーは見抜いています。

「日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にもならないであろう。それは単に、一連の緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に代わって極東支配のための敵対者として現れることを促すにすぎないだろう」

この言葉が正しかったことも、戦後の歴史が証明しています。

ー 未だかつてない前代未聞の思い違い ー

日中戦争
warnewsupdates.blogspot.com より引用
中国は共産党が支配することとなり、アメリカが期待した民主国家とはならなかった

日米戦争によって日本・アメリカ・中国の関係がどう変わるのかも、マクマリーは適確に予測しています。

「日本に対する米国の勝利は、極東での障害要素であった日本が排除されて、リベラルな路線での米中間の緊密なる埋解と協力に役立つ機会が大いにひらけていくと予測する平和主義者や埋想主義者がいるかも知れない。しかしそれは思い違いである。」

「中国が、日本の拘束から解放されることについて米国に思義を感じるとは考えられない。中国人は、我々には何も感謝しないだろうし、我々の意図が利己的でないと信じないだろう。そして、我々が果たすべき責任については、きっちりと我々に迫ってくるにちがいない。よく見ても、日本との戦争は何の利益も得られないし、どう転んでも巨大な犠牲と危険を必ず伴う。したがってこのような戦争の回避自体が、我々の最も重要な目標であることを認識しなければならない」

平和はいかに失われたか―大戦前の米中日関係もう一つの選択肢』ジョン・ヴァン・アントワープ マクマリー, アーサー・ウォルドロン著(原書房)より引用

戦後の極東はまさに、マクマリーの予言した通りになりました。

アメリカが日本と戦争をしたのは、日本に代わって中国の権益を一手に握りたかったからこそです。

大東亜戦争で日本が降伏した直後、『ニューヨーク・タイムズ』紙の社説には「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、わがものになったのだ」と、喜びの声が載っています。

邪魔者の日本さえいなくなれば、巨大な中国市場はアメリカのものになると、アメリカ人の多くが信じていたことをうかがわせる社説です。

しかし、マクマリーが「日本との戦争は何の利益も得られない」と予測した通り、日本に勝ってもアメリカが中国市場を手に入れることは適いませんでした。1949(昭和24)年中国共産党は中華人民共和国を成立させ、アメリカを中国市場から完全に締め出したからです。

蒋介石は共産党との内戦に敗れ、台湾に逃げ込みました。ソ連はいち早く中華人民共和国を承認し、翌年には中ソ友好同盟相互援助条約を交わしています。共産主義国の完全勝利です。

もともとソ連のコミンテルンは、共産党と合作している蒋介石政権と日本を戦わせ、両者の力が弱まったところで今度は共産党と蒋介石らを戦わせ、国民党を一掃することで毛沢東による共産主義国を中国に成立させることを計画していました。

結果的にルーズベルトが協力したことで、その作戦は大成功に終わったのです。

中国に巨額の借款を注ぎ込み、尊い人命を犠牲にしたにもかかわらず、アメリカは中国で何も得ることができないまま追い出されることになりました。

さらに1950(昭和25)年には朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍はソ連の支援を受けた北朝鮮軍と中国軍を相手に戦う羽目に陥りました。中国が民主主義ではなく共産主義の国家となったことで極東の安定は失われ、アメリカは多大な犠牲をこの先も払い続けることになります。

もしアメリカがマクマリーたちの声に耳を傾け、中国共産党とソ連の脅威について注意を向けてさえいたならば、今日の世界はまったく違う様相を呈していたことでしょう。

当時、『マクマリーメモランダム』を読んだグルー米駐日大使は、こう述べています。

「これはまさに傑作だ。上は大統領から下は極東政策に関与するすべての官僚までがこれを読み、勉強してほしい。中国と日本双方の実像を正確に、客観的に教えてくれる。また日本がいつも尊大な弱い者いじめで、中国が虐げられた無垢な人だという我々同胞の考えを変えさせるのに役立つだろう。それはまさに、今の戦争が始まってからずっと、東京にいる我々が勧告してきた政策の健全さを完全に証明するものである」

平和はいかに失われたか―大戦前の米中日関係もう一つの選択肢』ジョン・ヴァン・アントワープ マクマリー, アーサー・ウォルドロン著(原書房)より引用

中国と日本に駐在し、もっとも多くの情報に接することのできたマクマリーやグルーの声に、アメリカ政府は耳を貸そうとしませんでした。大きな勘違いをしたまま、大東亜戦争へと駒を進めたのです。

女流作家としても活躍した歴史家バーバラ・タックマンは語っています。
「一国の国民が他国の政府をこれほど完全な思い違いでみていたのは、古今(こきん)未曾有(みぞう)のことに違いない」

アメリカの人類史上例を見ないような大きな思い違いは、日米戦争へと両国の運命を導くことになります。

その5.アメリカ国民は戦争を望まなかった

ー 炎上した「隔離演説」 ー

アメリカ中を親中反日の世論が覆い、暴虐な日本に痛めつけられている可哀想な中国を助けたいという空気が生まれたことはたしかです。

しかし、だからといって中国を助けるためにアメリカが軍事介入し、日本と戦うことを支持するかと聞かれれば、ほとんどのアメリカ人がノーと拳を突き上げました。

当時のアメリカ人の大半は、平和を望んでいました。戦争を嫌い、ひたすら平和を臨む姿勢は、現在の日本と似たような状況でした。

第一次大戦に参加することで多大な犠牲を払ったことをアメリカは後悔していました。だからこそ中立法を作り、今後は他国の戦争には巻き込まれない決意を示したのです。

1937(昭和12)年10月に、同年7月に起きた盧溝橋事件を受け、ルーズベルト大統領はシカゴで「隔離演説」を行いました。

「不幸にしていま世界に、間違いなく無法という疫病が広がっているようにみえます。疫病が広がりはじめている以上、その拡大を防いでコミュニティの健康を守るために、その患者の隔離を認めて実行に移すべきです」

この演説は、他国と共同してアメリカは「国際的な無法状態と不安定」を生み出すものを隔離するという決意を述べたものです。ルーズベルトが疫病の保菌者に例えていたのは、日本・ドイツ・イタリアの三国であることは誰の目にも明らかでした。

ルーズベルトは他の多くのアメリカ国民と同様に、盧溝橋事件も、このあとに起きる第二次上海事変も、日本が中国を計画的に侵略したものだと思い込んでいました。

戦争にさえ発展しかねない勢いで三国を挑発する「隔離演説」は、平和を志向するアメリカ国民にとって見過ごすことのできない演説でした。

多くのアメリカ人がルーズベルトの「隔離演説」に批判の声を上げました。アメリカの6大平和団体は「大統領は国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出し、「アメリカを参戦させない」ための請願として2500万人の署名を集める運動が始まりました。

ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」と主張し、シカゴ・トリビューンはシカゴが「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えられてしまったと非難しました。

フィッシュ下院議員は「大統領は戦争を避けられないと言うことにより、国中に戦争ヒステリーを呼び起こした」と、ラジオ演説でルーズベルトを批判し、米国労働総同盟も「米国の労働者は欧洲、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行なっています。

アメリカ国民の大半は海外の紛争に巻き込まれることを望まなかったのです。

ー アメリカの若者を戦場に送るな! ー

1939(昭和14)年9月にドイツがポーランドに侵入したことから第二次世界大戦が始まりました。翌年の2月に「もしドイツがイギリスとフランスを打ち負かしそうになったら、アメリカはドイツに宣戦して軍隊をヨーロッパに送るべきか」という世論調査が行われました。

その結果はイエスが23%、ノーが77%でした。8割近いアメリカ人は、イギリスとフランスが亡国の危機に陥っても、アメリカは戦争をすべきではないと答えたのです。

1941(昭和16)年11月にも同じ趣旨の世論調査が行われています。「アメリカ議会には、アメリカとドイツの間に戦争状態が存在することを宣言する決議案を採択しようという動きがある。現時点でこのような決議案を採択することをどう思うか」という設問に対して、賛成26%、反対63%でした。

1941(昭和16)年11月といえば、真珠湾攻撃が行われる1ヶ月前のことです。その時点でさえ6割以上のアメリカ人は、アメリカが第二次大戦に参戦することに反対したのです。

アメリカにとって歴史的にも文化的にも馴染みの深いヨーロッパを守るための戦争にさえ反対していたアメリカ人が、まして遠いアジアの果てにある日本と戦うために、アメリカの若者たちを戦場に送ることに賛成するはずもありません。

ほとんどのアメリカ人にとって、日本や中国がどうなろうと知ったことではありません。極東がどうなろうとアメリカ人一人ひとりの暮らしには、なんの影響も及ばさないのだから無理もありません。

中国市場を欲していたのはアメリカ国民ではなく、軍需産業や一部の貿易業者、彼らの支持を政治基盤とする政治家に限られていました。

中国市場を獲得するためには、日本との戦争は避けられないとアメリカ政府は考えていました。しかし、国民のほとんどが反対している状況では、戦争を起こすことはできません。

ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相との密約もあり、第二次大戦にアメリカが参戦することを望みました。

日中戦争
wikipedia:ウィンストン・チャーチル より引用
ウィンストン・チャーチル 1874年 - 1965年
イギリスの政治家・軍人・作家。首相。陸軍士官学校のエリートコースを歩み、インドや南アフリカで軍人生活を送る。下院議員となり政治活動を始め、商務大臣・内相・海軍大臣を歴任。第一次大戦後に植民地相として実績を残す。1940年に首相となり、第二次大戦の戦争指導に当たった。大戦にアメリカを参戦させるため、ルーズヴェルトに対して様々な策を弄した。日米開戦の原因を作った人物として知られるが、なぜか日本では人気が高い。文筆家としても優れ、在職中にノーベル文学賞を受賞。

これよりアメリカ政府は第二次大戦に参加するために、アメリカの世論が戦争を支持するように工作を開始することになります。

 
参考URLと書籍の一覧はこちら


第1部 3章 泥沼の日中戦争(9/10)なぜ日本は大東亜経済共栄圏を築く必要に迫られたのか?

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(8/10)同情は中国に、嫌悪は日本に・・・

5.泥沼の日中戦争へ

5-12.深まるアメリカとの対立

当時の日米関係を振り返ったとき、極めて重要な転換点となった事件があります。1939(昭和14)年6月に起きた天津英仏租界封鎖問題です。

この事件によりアメリカは日米通商航海条約を一方的に廃棄し、以降は日本への経済封鎖を次第に強めていくことになります。経済封鎖は日本が大東亜戦争へと踏み切った直接の要因でもあります。

ここでは天津英仏租界封鎖問題を中心に振り返ってみます。

その1.租界が阻む東亜新秩序の建設

日中戦争
http://liondog.jugem.jp/?page=10 より引用
天津の英租界のヴィクトリヤ公園(昭和14年3月15日 名古屋日日新聞社)

東亜新秩序の建設において、その行く手を阻む大きな存在が、中国各地に点在する租界でした。ことに英仏の租界は中国のなかの独立国のような存在であり、日本が支援する地方政権の行政権も日本軍の勢力も及びませんでした。

なかでも日本にとってもっとも頭が痛い問題は、通貨でした。経済を支配するためには通貨を統一し、その管理を一手に引き受けることが必要です。

華北においては北京臨時政府のもとで連合準備銀行(連銀)が創立され、連銀券が唯一の法貨とされていました。連銀券は円とリンクしています。

ところが連銀券はまともに流通しませんでした。国民政府の管理通貨である「法幣」が未だに広く流通していたからです。法幣は英ポンドとリンクしていました。

日中戦争
https://www.archives.gov.tw/Publish.aspx?cnid=1668&p=1312 より引用
中国で発行されていた法幣

主としてイギリスの支援によって維持されていた法幣は国際通貨の地位を確保しており、現地の信用は高かったのです。

通貨を管理することで華北経済圏を国民政府から切り離したい日本にとって、法幣を駆逐することは絶対に必要なことでした。

法幣がいつまで経っても駆逐できないのは、英仏租界内では依然として法幣が法定通貨とされているためでした。租界内は北京臨時政府の行政権が及ばないため、どうにもできません。

天津は当時、華北第一の貿易港です。それだけに天津にある英仏租界には主要な金融・商業機関が集中しており、華北経済の中心地になっていました。その英仏租界で法幣が使われていたため、英仏租界を中心に華北と華中・華南までを結ぶ法幣による一大交易圏が成立していたのです。

つまり、英仏租界こそが日本側による華北経済の支配を阻んでいる元凶でした。

日中戦争は通貨戦でもあったとよく言われるのは、このような背景があったからです。

通貨戦に勝利するためにも、中国に列強が有する租界をすべて返還させる必要がありました。その矛先が法幣の元締めであるイギリスに真っ先に向かうのは、ごく自然なことといえるでしょう。

その2.日米対立の発火点となった天津英仏租界封鎖問題

ー 天津租界封鎖のあらましと反西洋 ー

日中戦争
http://liondog.jugem.jp/?page=10 より引用
街路整然たる仏国租界及英国租界を望む

通貨と並ぶ、天津の英仏租界のもう一つの問題は、華北における共産党系遊撃軍や国民党系ゲリラなどの隠れ蓑(みの)になっていることでした。抗日勢力を取り締まりたくても租界内に逃げ込まれてしまうと、もはや手出しができません。

そのため、英仏租界は抗日勢力の根拠地と化していました。抗日勢力の引き渡しを要求しても英仏租界側は応じないため、軍は手をこまねいていました。

そんな状況下で1939(昭和14)年6月に、北京臨時政府によって新たに任命された海関(税関)監督が、天津の英仏租界内で暗殺される事件が発生したのです。

この事件の容疑者の引き渡しを日本側は求めましたが、英仏租界側はまたも拒否しました。これに怒った日本軍は天津の租界を封鎖するという実力行使に、ついに踏み切りました。

この報道が国内に流れると、反英運動がこれまでにないほどの盛り上がりを見せ、各地で集会が開かれました。東亜新秩序の建設を邪魔立てするイギリスへの批判に、聴衆は万雷の拍手をもって応えました。

反英運動は中国にも飛び火しています。そこに日本軍の扇動があったことはたしかですが、国民政府にしても共産党にしても、そのことに対する非難を行うことなく静観を貫きました。

そのことはジョンソン中国大使を大いに失望させました。中国側は日本と戦争をしていても、反西洋の立場では日本と歩調を合わせているように見えたからです。

ジョンソンは次のように語っています。

「日本人によって唆された占領地における反英扇動との関連で注意に値するのは、私が知る限り、中国当局がそのような扇動を公に非難しなかったことである。憶えておかねばならないことは、ここ極東では、西洋人は東欧の国々におけるユダヤ人のような地位にあるということ、そして、西洋のいずれの国民に対してであれ、西洋人に敵対する扇動には、極東のすべての人々が本能的共感をもつだろうと思われることである……。」

人種戦争という寓話―黄禍論とアジア主義』廣部泉著(名古屋大学出版会)より引用

日中戦争
wikipedia:ネルソン・ジョンソン より引用
ネルソン・ジョンソン 1887年 - 1954年
アメリカの外交官。中国を中心とする極東地域を担当した。上海領事館で副領事・長沙領事館で領事を務めた後、極東部の部長に就任。国務次官補を務めた後、駐中華民国公使、のちに大使となる。アメリカの対中政策についての立案を担当し続けた。アメリカの利益に反しない範囲内で、可能な限り中国の主権回復をするよう主張した。

ジョンソンの感じ取った「アジアの人々が抱く本能的な共感」は、大東亜戦争において反白人の狼煙となってアジア中で沸き上がることになります。

ー イギリス側の大幅譲歩 ー

日本が天津の英仏租界を封鎖したのは、抗日活動の封じ込めを名目に租界を華北経済から切り離すためです。そのために、租界内の国民政府系銀行が保有する現銀(銀貨・銀塊)を臨時政府へ引き渡すように要求しています。大量の現銀こそが法幣の貨幣価値を裏付けていたからです。

この際、「北支経済の癌」とされていた英仏租界を一気に無力化しようと図ったのです。

日本側が一歩間違えれば日英戦争にも発展しかねない租界封鎖という荒療治に出たのは、国際情勢を冷静に分析したからこそです。緊迫したヨーロッパ情勢を前に、イギリスが遠いアジアのことで戦争を起こす余裕などないことを軍部は見抜いていました。

実際、イギリスはヨーロッパ情勢に備えるために日本との紛争は回避すべきと決定し、あくまで外交交渉による平和的な解決を目指しました。

7月23日に有田外相とクレーギー駐日英大使による日英東京会談が行われ、イギリス側は日本に大幅に譲歩し、租界を含めて中国において日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受け入れました。

重慶の蒋介石政権はイギリスに対し、それでは日本の占領地支配をイギリスが承認したことになると強く抗議しています。中国としてはイギリスが次々と日本の要求に屈していく様を見て、歯がゆい思いをしていました。

これまで中国の税関である海関を実質的に管理していたのはイギリスでした。ところが華北の海関は北京臨時政府に接収され、上海海関も5月に南京維新政府に接収されていました。

日本とイギリスとの交渉のみで海関の管理権が日本に移されたことは、中国側にとっての屈辱でした。これにより重慶政府の関税収入は大幅に減少し、蒋介石政権は大きなダメージを受けていたのです。

中国からイギリスの権益を少しずつ引きはがすことに、日本は確実に成功していました。ところが……。

その3.日米通商航海条約の一方的な廃棄

ー アメリカはなぜ通商条約を廃棄したのか ー

日英東京会談で一応の解決を見た天津英仏租界封鎖問題ですが、その3日後の7月26日、アメリカ政府はなんの前触れもなく突然、日米通商航海条約の破棄を通告してきました。

日米通商航海条約は関税自主権の回復という不平等条約の改正を受けて 1911年に締結されて以来、日米の通商航海の自由を守ってきた条約です。日米修好通商条約の時代も入れれば、1858(安政5)年以来、日米友好の証となってきた条約でした。

日中戦争
https://blog.goo.ne.jp/sisekitannbou/e/49609175d5ad4b524f9538fc2083941a より引用
長らく日米友好をとりもってきた日米通商航海条約の廃棄は、日本側に大きなショックを与えた

通商条約の破棄は、日本がイギリスに対して譲歩を強要したことに対するルーズベルト大統領らによる警告処置でした。日本による東亜新秩序声明も、イギリスをはじめとする列強の中国における権益を日本が奪おうとすることも、アメリカは一切認めないとする意思表示です。

領土保全と門戸開放の原則に反する既成事実をイギリスが公式に承認することを、アメリカは容認できなかったのです。

予期していなかったアメリカの通告に、日本は大きな衝撃を受けました。通商条約の破棄によって、6ヶ月後には条約が失効します。そうなるとアメリカはいつでも合法的に対日貿易を制限あるいは停止できることになるからです。

当時の日本は石油類の75%、鉄類の49%、機械類の54%など、多くの重要物資をアメリカからの輸入に頼っていました。それらの重要物資は日中戦争を遂行する上でも、欠かせないものでした。

ところが通商条約の破棄を通告されたことによって、重要物資の供給が途絶える可能性が生じたのです。このことは日本の興亡につながるほどの重大事でした。

ー アメリカによる対日経済制裁 ー

日中戦争
http://syowakara.com/06syowaD/06history/historyS14.htm より引用
1939(昭和14)年7月6日付け中外商業新聞、日米通商条約破棄を報じる記事

日本にとっては驚天動地の通告でしたが、対日経済制裁の検討はアメリカでは1938(昭和13)年の末頃から始まっていました。

国務省政治問題担当顧問ホーンベックがハル長官に対して、米国民は今や思い切った行動を歓迎しているとして日米通商航海条約の廃棄を提案しています。

イギリスからも対日経済制裁が提唱され、クレーギー駐日英国大使はグルー駐日米国大使に対して日本からの輸入制限、対日クレジットと借款の停止による対日経済制裁についての覚書を送っています。

その際、グルーはこの提案に反対し、次のように述べています。

「日本人は頑健な民族で、個人的また国家的犠牲に慣れてゐる。彼等は歴史を通じて惨事や災害との遭遇に慣れて居り、『命懸け』の精神は他のいかなる民族よりも深く日本民族の中に染み込んでゐる。支那に於てこれだけ多くの血と財貨を投じたいま、日本が今事変での敗北を認めるといふが如きは、当大使館としては頗(すこぶ)る考へ難い仮説である」

大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

日中戦争
wikipedia:ジョセフ・グルー より引用
ジョセフ・グルー 1880年 - 1965年
アメリカの外交官。デンマーク公使・スイス公使・国務次官・ルコ大使を経て駐日大使となる。日米親善に尽力し、日米開戦回避に向け奔走した。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国務長官を辞し、私人として講演活動などを通じて日米両国の親善に尽くす。戦後処理に際しては、天皇制を擁護した。吉田茂はグルーのことを「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価した。

されど、グルーの意見は無視され、1939(昭和14)年1月にアメリカは日本に対して航空機及び部品の道義的禁輸を実施し、続いて翌2月にはクレジット禁止による対日経済制裁に踏み切っています。

そこへさらに今回は日米通商航海条約の廃棄を通告したことで、日本に対するあからさまな警告としました。

実はイギリスはアメリカに対して直接介入を要請していました。それを断ってアメリカは通商条約の破棄を通告するだけに留めていたのです。直接制裁するのではなく、制裁が可能となる状態に移行することで、日本側に自制を求めたといえるでしょう。

しかし、通商条約の廃棄通告は日本にとって喉元に刃を突きつけられるも同然でした。これにより日本は、アメリカに依存せずに自立できる経済圏を自らの手で創り出す方向へ向けて走り出すことになります。

ー 天津租界封鎖のその後 ー

アメリカの心強い支援は、譲歩に向かっていたイギリスの態度をも一変させました。続いておこなわれた東京での日英交渉においてイギリスは、租界内での抗日組織の取締りなどでは譲歩したものの、日本が交渉の主眼としていた通貨問題では態度を硬化させています。

日本が要求していた租界内での法幣の流通禁止と租界内の国民政府系銀行が保有する現銀の引き渡しについては、かたくなに拒否しました。イギリス側はアメリカとフランスを交えての協議が必要との主張を譲ることなく、交渉はやむなく無期延期となったのです。

この交渉に臨んでいた中支那方面軍参謀副長の武藤は「英国の態度は二面外交を弄し、遅延を策して第三国の介入を企図するもの」であると憤り、租界の封鎖を翌年の6月まで継続しました。

その4.大東亜の新秩序を目指して

日中戦争
http://d.hatena.ne.jp/mensch/20091004/p1 より引用
アメリカに依存することなく自立するためには、日中満による大東亜新秩序をさらに発展させた大東亜経済共栄圏を築く必要に迫られた

天津英仏租界封鎖問題とその後のアメリカによる通商条約破棄の通告は、日本のその後について主として3つの大きな影響を及ぼしました。

ひとつは大東新秩序の建設において、直接の障害としてイギリスが改めて強く意識されたことです。列強のなかでもっとも大きな権益を有し、なおかつ経済的な影響力をもつイギリスを中国から排除することは、日本にとって避けられないことでした。

ふたつめはアメリカ政府がイギリス重視の姿勢をとることがわかったことです。ことにルーズベルトがイギリス寄りの政策を推し進めようとしていることは、日本にとって重要な意味をもっていました。

イギリスとアメリカは一心同体なのか、それとも自国の国益を優先することでイギリスと距離を置くのか、アメリカの動向次第で日本の動き方を変えざるを得ません。

この後日本はイギリスとアメリカを分断できるかどうかをめぐり、陸軍と海軍で見解が分かれ、衝突することになります。

いずれにせよ、中国からイギリスを駆逐するにしても、アメリカの動きに細心の注意を向ける必要があることはたしかでした。

最後に三つ目として、アメリカに依存する経済状況のままでは日本の未来がないことに気づかされたことです。

日本としては東亜新秩序の建設を、アメリカの資本を呼び込むことで実現しようと思い描いていました。しかし、アメリカに依存しなければ成り立たないような経済状況では、アメリカの機嫌を損ねるとたちまち立ちゆかなくなってしまいます。

となれば、アメリカに依存する経済状況からの脱却を目指すよりありません。そうなると東亜新秩序の構想も大きな変更を迫られることになりました。

アメリカへの経済依存を断ち切るためには、資源をアメリカからの輸入に頼っている現状を変える必要があります。日本・中国・満州だけでは資源が不足することは明らかです。

鉄や石炭などは日本・中国・満州の3国内でどうにか自給自足できる状態でしたが、石油だけはどうにもならない状況でした。石油をアメリカからの輸入に頼っている現状を変えなければ、経済的な自立は到底望めません。

そこで日本は、当初構想した東亜新秩序をより発展させ、自給自足的な「協同経済圏」を作る方向に舵を切りました。

第一に石油を確保すること、さらに生ゴム・ボーキサイト(アルミニウム原料)などの資源も必要でした。これらの資源は日本や中国大陸ではほとんど算出しない資源だったのです。錫(すず)・ニッケル・燐(りん)も東亜三国だけでは産出量が不足していたため、他から補充する必要がありました。

そうした資源に恵まれている場所は、すぐ近くにありました。インドネシア半島やインドネシアなどの東南アジアです。

ここにおいて、日本・中国・満州のみならず、東南アジアを含めた「大東亜を包容する協同経済圏」を設定する構想を日本は描くようになります。

日中戦争
https://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201609/article_17.html より引用
大東亜共同宣言のポスター

アメリカへの経済的依存を断ち切るためには、「大東亜協同経済圏」を構築するよりなかったのです。「協同経済圏」の構想は、のちの「大東亜共栄圏」へと繋がっていきます。

かくして南方資源獲得へと、日本の視線は向けられることになったのです。

参考URLと書籍の一覧はこちら

第1部 3章 泥沼の日中戦争(10/10)共産化を防ぐための孤独な戦い

$
0
0

「日本とフィリピンの大東亜戦争」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

前回の記事はこちら
第1部 3章 泥沼の日中戦争(9/10)なぜ日本は大東亜経済共栄圏を築く必要に迫られたのか?

5.泥沼の日中戦争へ

5-13.共産化を防ぐための孤独な戦い

その1.世界に理解されなかった防共の戦い

日中戦争
ウィキペディア より引用
赤の広場を行進するボリシェヴィキ軍

満州事変にしても日中戦争にしても、今日では日本の侵略性ばかりが批判されることが多いようです。しかし、満州事変と日中戦争には共産化を防ぐための戦いとしての側面もあったことは、あまり知られていないようです。

ロシア革命によって世界初の共産主義国家であるソ連が誕生したことは、日本にとって大きな脅威でした。日本にとっては極めて近い地域で起きた革命であり、共産主義というイデオロギーが飛び火してくる可能性も高かっただけに、けして対岸の火事ではありません。

ロマノフ王朝の皇帝一家殺害は、天皇を中心とする立憲君主国である日本にとって、軽視することのできない脅威だったのです。

1918(大正7)年7月17日深夜、ロシア革命によって囚われの身となっていたロシア帝国皇帝ニコライ2世と夫人、5人の子供たちは、ボリシェヴィキ(レーニンが率いたロシア社会民主労働党の多数派)の命により家族全員が銃殺されています。

日中戦争
wikipedia:ニコライ2世 より引用
ニコライ2世1868年 - 1918年
帝政ロシア最後の皇帝 (在位 1894~1917) 。即位当初はロシア資本主義の確立期にあたり経済的繁栄を誇った。20世紀に入る頃から不況が進み、諸列強との帝国主義的対立も顕著となった。やがて労働運動が激化。農村にもロシア国内の被抑圧民族にも動揺は拡大した。日本訪問時に襲われて負傷(大津事件)。朝鮮への勢力拡大によって極東へ進出し、日露戦争を起こすも敗れる。

極東での相次ぐ敗戦と戦費の増大による大衆生活の圧迫により、「血の日曜日」事件に始まる革命を招く。バルカン半島への進出を企て第1次世界大戦に突入。軍部の反対を押切ってみずから戦線を指揮したが戦況はふるわなかった。皇太子アレクセイが血友病であったことが怪僧 G.E.ラスプーチンの皇室と国政への干渉を許し、市民の怒りを買う。二月革命を受けて退位。家族とともに逮捕された後、妻・子供たちと共に処刑された。

日中戦争
ウィキペディア より引用
ニコライ2世とその家族、全員が惨殺された

まだ幼い子供を含め、皇帝一家がたどった悲劇的な最期は、世界中に衝撃を与えました。

共産主義を恐れたのは日本ばかりではなく、ヨーロッパ諸国やアメリカにとっても国家の存続を揺るがす脅威として受け止められていました。資本主義諸国の政府を転覆させる共産革命の飛び火を、どの国も恐れたのです。

そうした恐れがけして的外れではないと証明されたのは、第二次大戦後でした。東ヨーロッパはソ連の武力制圧のもとで次々と共産革命が起こり、ソ連の衛星国となり果てました。衛星国とソ連の関係は、けして民主的なものではなく、自主権を奪われた奴隷的ともいえる服従を強いられました。共産国の人民には自由がなく、共産党による恐怖政治が行われていたのです。

日中戦争
twitter.com/mayumi3141 より引用

アジアも中国をはじめ、北朝鮮・ベトナムが共産国となりました。すべてはマルクス・レーニンの世界革命の一環として為されたことであり、それ自体が侵略戦争としての側面も持ち合わせていたといえるでしょう。

それにもかかわらず、戦後の日本の多くの知識人はソ連や北朝鮮に理想郷をあてはめ、人民は幸福に包まれているとの幻想を抱きました。当時の知識人の多くが共産主義を思い違いしていたことは、アメリカが中国を見誤ったことと本質的な違いはありません。

ロシア革命の直後から、日本は防共のための戦いを始めていました。革命が起きた翌年にはアメリカとともにシベリア出兵を行ったのも、列強が引き上げた後に日本のみが残ったのも、防共に備えるためです。地理的にソ連に近い日本は、常に欧米以上に共産主義の脅威を感じていました。

満州事変もまた、満州の共産化を防ぐために必要なことでした。そのことは欧米列強には理解されませんでしたが、防共のために日本が戦っていると指摘する声も少数ながら上がっています。たとえばグルー駐日大使は、次のように述べています。

「日本はおそらく、満州に、この不幸な国がかつて経験したことのない平和と繁栄の政治をもたらすだろう……さらに日本は、現在の重大の問題であるボルシェヴイズム(共産主義)の東方への蔓延に対して、堅固な緩衝装置の役割を果たしている。たとえ日本に何も取り柄はなかったとしても、現在、中国を山火事のように席捲し、もし日本が手をつけなければ満州をもすぐに侵しかねない共産主義に対して日本が挑んでいる戦いについて、少なくともその功を認めなければならない」

満州事変とは何だったのか 下巻』クリストファー・ソーン著(草思社) より引用

もちろん満州事変は防共のためだけに起きたわけではありません。それでも複雑な要因のなかのひとつに、防共という骨太な筋が日本軍の行動には常に通っていたことはたしかです。

日中戦争にしても同じです。防共を唯一の目的として起きた戦争ではないものの、日中戦争は中国で勢力を伸ばしつつある共産主義を根こそぎ排除するための戦いでもありました。

実際、日本はドイツに対し、日中戦争は防共のための戦いであることを説明し、ドイツによる蒋介石政権への支援を中止するように訴えています。ドイツは中国で産出されるタングステンを必要としていたため、日本側の度重なる要請を拒否しました。

タングステンは戦車などの装甲や砲弾に使用される金属で、軍事上は欠かすことのできない重要資源です。現代でもタングステンの産出量は中国が全世界の8割以上を占めています。

防共協定を交わしていたドイツでさえ、防共の戦いという日本の掲げた大義については理解を示しませんでした。

かくしてドイツも、欧米列強もソ連もこぞって蒋介石政権の支援に回ったのです。日本は孤立無援のまま、共産主義との孤独な戦いを続けるよりありませんでした。

そんな日本に対して唯一理解を示してくれたのは、思いもかけない方面からでした。

その2.全世界のカトリック教徒よ、日本軍に協力せよ!

盧溝橋事件が起きた1937(昭和12)年の10月、ローマ法王ピウス11世は日中戦争について次のような声明を出しました。

「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」

日中戦争
wikipedia:ピウス11世 (ローマ教皇) より引用
ピウス11世 1857年 - 1939年
カトリック教会の司祭。ローマ教皇(法王)(在位:1922年-1939年)。多くの図書館長を歴任。古文書学の権威。枢機教及びミラノ大司教を経て、教皇に任命された。イタリア政府とラテラノ条約を結んでバチカン市国の法的地位を確立。

海外布教、特に極東における活動を強化した。第一次大戦で荒廃したヨーロッパにキリスト教的平和をもたらすべく尽力。日中戦争では全世界のカトリック教徒に日本軍に協力するよう呼びかけた。晩年はナチズムと無神論的共産主義に敵対した。教皇庁の科学アカデミーを創設。

全世界のカトリック教徒を束ねるローマ法王が、防共のために孤独な戦いを続けている日本の行動に対して理解を示してくれたのです。「日本軍に協力せよ」とローマ法王が呼びかけたところで、実際になにかが変わったわけではないものの、法王の声明がキリスト教を文化の土台とする西欧社会に衝撃を与えたことは間違いありません。

思いもかけないローマ法王からの支援の声は国内でも報道され、反響を呼びました。同年10月16日および17日の『東京朝日新聞』の夕刊は、次のように報じています。

「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」

日中戦争
ローマ法王ピオ11世。全カトリック教徒は日本軍へ協力を (「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16日) より引用

欧米からは一方的な侵略として非難されていた日本にとって、その欧米の人々の精神的な支柱であるローマ法王自らが「日本は侵略したのではない、中国を救うために防共の戦いをしているのだ」と日本の行動に対して賛意を表明してくれたことは、大きな意味のあることでした。

ローマ法王の声明の背景には、キリスト教と共産主義との根深い対立が横たわっています。
共産主義とマルクス主義とは必ずしも同一ではないものの、マルクス主義は「無神論」を強調します。キリスト教にとって最大の敵と見なされたのは、この無神論です。

キリスト教から見て邪教の神を信じていようとも、神を信じる心をもっているだけに、まだ救いようがあります。ところが無神論にこり固まっていると神そのものを否定するため、救いようがありません。人から神を信じる心さえ奪う共産主義は、キリスト教にとって許すことのできない悪魔の教えだったのです。

ことにカトリックは、反共産主義の姿勢を貫きました。そのためにナチスと接近したのも歴史的な事実です。ヒトラーが政権を握った直後にナチスが勢力を伸ばした背景として、カトリック教会の支援がひと役かっています。

もっとも当時はまだ、ナチスが危険であるとの認識は欧米社会にはほとんどありませんでした。

ナチスがその正体を次第に露わにするとともに、ローマ法法ピウス11世はナチスとの対立を深めていきました。1937(昭和12)年にはナチスを「新興異教」として非難しています。

しかし、ピウス11世は1939(昭和14)年に世を去ってしまいます。ピウス11世の死は後ろ盾をなくした日本にとっても痛恨事でしたが、後を引き継いだピウス12世によってカトリックとナチスの対立軸が以前よりも弱まったことにより、カトリック教会としても後世に汚名を残す結果を招きました。

日中戦争
wikipedia:ピウス12世 (ローマ教皇) より引用
ピウス12世 1876年 - 1958年
イタリアの聖職者。ローマ教皇(法王)(在位:1939年 - 1958年)。第二次世界大戦前後という困難な時代に教皇庁の外交担当や教皇を務めた。その間の対応には批判的な評価もある。ことにバチカンがナチス・ドイツのユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判された。ただし、イタリアの敗戦によりドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人をバチカンでかくまったとされる。

これによって戦後、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞を贈られている。ナチスを公然と非難しなかったのは、ヒトラーを怒らせて、より残虐な行為を招きかねない刺激を避けたためとする説もあり。

キリスト教を公然と迫害し、宗教を抹殺しようとする共産主義に対抗することは、ピウス12世のもとで反ナチスよりも優先されました。

そのため、ナチスによるユダヤ人大虐殺、いわゆるホロコーストに際してバチカンは沈黙を守り続け、結果的に多くのユダヤ人の命が奪われることになったのです。ただし、命を賭してユダヤ人の救出に尽くしたカトリックの神父も少なからずいます。

カトリックによる日本の支援は、戦後も行われたとされています。占領軍によって軍国主義の象徴とされた靖国神社を、取り除くべきか残すべきかで迷っていたマッカーサーに対し、ローマ教皇庁代表であったビッテル神父らが靖国神社存続のための懇願を行っています。

そのことが占領軍の政策にどの程度の影響を及ぼしたのかは不明ですが、靖国神社は取り壊しを免れ、今日も存続しています。

1980(昭和55)年5月21日には、A級戦犯・BC級戦犯として処刑された人々へのミサがサン・ピエトロ大聖堂にて法王ヨハネ・パウロ2世のもとで行われました。その際、1618柱の位牌が納められた五重塔(仏教的には位牌ではないとされる)がヨハネ・パウロ2世に奉呈されています。

日中戦争
wikipedia:ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) より引用
ヨハネ・パウロ2世 1920年 - 2005年
ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年 - 2005年)。カトリック教会の聖人としてヨハネ23世とともに、ピウス10世以来60年ぶりに列聖された教皇。ハドリアヌス6世以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。全世界を訪問し「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれる。冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけと、数々の平和行動を実践。他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会との和解に尽力。晩年は暗殺未遂事件に何度か巻き込まれる。

カトリック教会と日本との戦時中の繋がりは、今日ではほとんど知られていません。

その3.日本はソ連を侵略したのか

ー 東京裁判で認定された日本によるソ連侵略 ー

日中戦争
ウィキペディア より引用
東京裁判、公判中の法廷内

東京裁判にて大東亜戦争は日本による一方的な侵略であると裁かれました。侵略戦争の遂行によって平和に対する罪を犯した者として、当時の政権の中枢にあった政治家や軍人が死刑に処されたことは、広く知られています。

ですがその際、ソ連のゴルンスキー検事が1904(明治37)年から始まる日露戦争から1936(昭和11)年の日独防共協定、さらに張鼓峰(ちょうこほう)とノモンハンにて起きた日ソの軍事紛争を含め、日本が終始一貫してロシアに対して侵略戦争を遂行したと論告した事実は、あまり知られていません。

判決文ではソ連の論告がほぼそのまま認められ、裁判所が審理している全期間(1928=昭和3年~1945=昭和20年)を通じて日本は対ソ侵略戦争を企図・計画したと見なされ、張鼓峰とノモンハンの軍事紛争は日本側によって始められた日本のソ連に対する侵略戦争であると認定されました。

つまり東京裁判史観に従えば、日本はソ連を侵略したことになります。

しかし、それは歴史的な事実とはあまりにもかけ離れた歴史観といえるでしょう。大東亜戦争中に日ソ間で起きた出来事のみを追いかけても、真実が見えてきます。

1941(昭和16)年にドイツとソ連の間で独ソ戦争が起きた際、ドイツは日本に対して正式に参戦を要請してきました。しかし、日本は同年4月に日ソ中立条約を結んでいたため、独ソ戦不介入を決めています。

モスクワやレニングラードがドイツ軍の猛攻の前に陥落寸前の危機に陥った際、日本が背後からソ連に攻め入れば、ソ連にとって致命的となることは明らかでした。日中戦争の最中でも日本はソ連からの侵略に備え、満州に関東軍の精鋭部隊を配置していたため、いつでも参戦しようと思えばできる状況でした。

それでも日本は条約を守り、関東軍百万の兵は一歩も動きませんでした。

東京裁判に際してパール判事は、日本がソ連を侵略する意図がなかったことについて次のように述べています。

「日本は、ロシアが欧州戦争に巻き込まれていた好機を利用しなかった。もし行為が意思を示すものであるならば、これこそソ連に対する陰謀または共同謀議の存在とは、まったく反対の確証である」

「日本が時に応じてどんなことをいったにしても、また、日本の準備がどんなものであったにしても、証拠は、日本がソ連と衝突することを避けようと念じていたことを十分に示している。日本は常に、かような衝突を恐れていたようである。ドイツの激しい要請さえも、日本に対して行動を起こさせることはできなかった」

東京裁判 全訳 パール判決書』ラダビノード・パール著(幻冬舎) より引用

日中戦争
wikipedia:ラダ・ビノード・パール より引用
ラダ・ビノード・パール 1886年 - 1967年
インドの法学者・裁判官。コルカタ大学教授・国際連合国際法委員長を歴任。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人。日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。国際法の専門家としての立場から被告人全員の無罪を主張した「パール判決書」は、よく知られている。米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると主張した。

パール判事の弁は明快です。

ところが立場が逆になったとき、ソ連はどうしたでしょうか?

日本に原子爆弾が投下され、日本の戦力が完全についえたとき、そして日本政府が最後の頼みの綱として連合国との和平交渉をソ連に託していた最中、ソ連は150万を超える大軍を向けて満州侵略に踏み切りました。その際、婦女子を含め、多くの民間人がソ連軍によって虐殺・暴行・強姦されています。
▶ 関連リンク:4-9.満州の見果てぬ夢 - その4.開拓史上最大の悲劇

日ソ中立条約をソ連は一方的に破棄して満州になだれ込んできたのです。これは明らかな国際条約違反です。

しかもソ連に対して日ソ中立条約を破棄して参戦するように要請したのは、アメリカとイギリスでした。

東京裁判に際し、このことをバイロン・ブライス米国陸軍法務官は、1945(昭和20)年12月に『ニューヨーク・タイムズ』紙にて次のように記しています。

「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰すからやめたらよかろう。なぜなら、それを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない」

東京裁判の正体』菅原裕著(時事通信社) より引用

日中戦争
wikipedia:ヨシフ・スターリン より引用
ヨシフ・スターリン 1878年– 1953年
ソ連の政治家・軍人。ソ連第2代最高指導者。チフリス高等神学校に在学中グルジアの愛国的社会主義団体に加入しマルクス主義に接近。神学校から追放された後、職業革命家となり革命まで逮捕・流刑・逃亡を繰り返す。ロシア革命ではレーニンを助けて活躍。レーニンの死後、一国社会主義論を唱えてトロツキーら反対派を次々に追放し、独裁体制を固めた。

「スターリン憲法」を定め、膨大な数の党員を投獄・処刑する「大粛清」を実行。第2次世界大戦では国防会議議長・赤軍最高司令官として戦争を指揮。独ソ戦では緒戦で大敗北を喫したが、米英などと共同戦線を結成し対ドイツ戦を勝利に導く。ヤルタ会談に基づき日ソ中立条約を一方的に破棄して満州侵略、多くの日本人民間人を虐殺した。戦後は東欧諸国の社会主義化を推進。

1945(昭和20)年2月に行われたヤルタ会談にてアメリカ・イギリス・ソ連が密約を交わし、ソ連による満州と北方領土への侵略がなされたことは、今日では歴史的な事実として確定しています。

日中戦争
https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/57962461.html より引用
密約を交わすルーズベルト・スターリン・チャーチルの画

こうした歴史を検討してみると、ソ連が中立条約を一方的に破り日本を侵略したとしか考えようがありません。それにもかかわらず、東京裁判では事実が 180度ひっくり返り、日本が一方的にソ連を侵略したとして裁かれたのです。

東京裁判がいかに真実を歪めるものであったのかを明らかにするために、裁判にて争点となった日独防共協定と張鼓峰・ノモンハン事件について、簡単に振り返ってみます。

ー 日独防共協定は侵略か ー

日中戦争
https://blogs.yahoo.co.jp/gauss0jp/65219424.html より引用
1938(昭和13)年、日独防共協定締結に伴い、ドイツに向けて神戸港を出発する大日本青少年独逸派遣団

日独防共協定は1936(昭和11)年11月に日本とドイツの間で調印された協定です。「共産インターナショナルに対する日独協定」が正式名です。

防共協定の目的は共産主義の破壊活動に対する防衛にあります。そのための情報交換を行い、必要な防衛措置について協議することが協定の骨子でした。

問題となったのは、この協定に附属する秘密協定です。その内容は二つあり、ひとつは一方の国がソ連と開戦に至った場合には、他方の国はソ連に有利となるいっさいの行動を控えること、もうひとつは両国は相互の同意がないまま防共協定に反する条約をソ連と結ばないこと、の二つです。

その内容から見てもわかるように、防共協定は日独の軍事同盟とはとても呼べない条約でした。日本とドイツの反共政策が、たまたま一致したことで協定が成立したに過ぎません。日本としてはイギリスをはじめ各国に防共協定への参加を呼びかけましたが、応えてくれたのがドイツだけだったのです。

広田首相は枢密院審査委員会にて「決して我国がドイツの内政上の主義方針に賛意を表し、これと行動を共にすることを意味するものでないことは無論」と述べ、けして軍事同盟ではないことを表明しています。

しかし、アメリカとイギリスは防共協定を反米・反英の軍事協定と曲解し、日本に対する疑念を募らせました。

それゆえに東京裁判においても、防共協定をソ連への侵略を意図するものであると、あえて真実をねじ曲げたといえるでしょう。

日中戦争
https://jaa2100.org/entry/detail/045575.html より引用
1936(昭和11年)、日独防共協定の締結後の祝賀会

防共協定についてパール判事は「共産主義に脅威を感じていたのは、日本の軍国主義者のみではなかった」と述べたのち、それがソ連への侵略とする見解が間違いであることを理路整然と指摘しています。

パール判事は、アメリカのヒューズ国務長官が1922(大正11)年に語った次の言葉を引用しました。

「もっとも重大なことは、モスクワにおいて支配権を握っている人びとは、世界中のいたるところで、できるなら現存の諸政府を破壊しようとする彼らの最初の目的を放棄していないという決定的な証拠がある」

日中戦争
wikipedia:チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ より引用
チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ1862年 - 1948年
アメリカの政治家・法律家。ニューヨーク州知事を経てアメリカ合衆国最高裁判所判事を務める。大統領選に出馬したがウィルソンに敗れた。国務長官を務め、ワシントン会議を主宰して9ヶ国条約を結び、門戸解放主義を列強に認めさせた。のち、合衆国最高裁判所長官。

アメリカでさえ共産主義の脅威について備えることをすすめておきながら、日本とドイツが防共のための協定を結んだからといって、どうしてそれが「侵略行為」になるのかと、疑問を投げかけたのです。

パール判事は綴っています。

「ともあれ、全世界は、共産主義およびその勢力の発展に対する恐怖に脅やかされていた。日本もまた、たんにその感を共にしたにすぎない。今日でさえも、世界はこの実際上、あるいは想像上の恐怖心からのがれることができないでいる。全世界は、共産主義および共産国家によってもたらされるおそれのある侵略に対し、過去においても準備をなしつつあったし、なお現在においてもその準備をしているのである。本官はとくに選び出して、日本の準備だけが、侵略的なものであった、といわなければならない理由を見出すことはできない」

東京裁判 全訳 パール判決書』ラダビノード・パール著(幻冬舎) より引用

パール判事の弁は極めて論理的で正当なものといえるでしょう。日独防共協定を日本がソ連を侵略しようとした証と見るのは、どこからどう見ても無理があるようです。

ー どちらが軍国主義国か ー

ソ連の軍事力は日本軍をはるかに圧倒していた

東京裁判にて日本はナチスと並ぶ軍国主義国としての烙印(らくいん)を押されました。それ以降は世界的に、明治以降の日本は軍国主義国であったと見なされるようになりました。

戦後教育を受けている私たちの多くは、それを疑うことなく素直に受け入れています。日本において昭和初期に軍部が台頭していたことはたしかです。しかし、歴史を振り返ったとき、帝国主義の時代にあって日本だけが軍国主義国であったと非難されるのも不可思議なことです。

下の図は1931(昭和6)年から1939(昭和14)年までの日本とソ連の師団数・戦車数・飛行機数を比較したデータです。

日中戦争
『大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

「ソ連軍の狙撃師団」は日本陸軍の歩兵師団にあたります。表を見れば一目瞭然ですが、師団数においてソ連は日本陸軍を圧倒しています。しかも、ソ連の狙撃師団と日本の師団では定員数が異なります。

日本陸軍の一個師団の定員は1万名ですが、ソ連の狙撃師団は1万8千名です。一師団の定員数だけでも1.8倍の差があることに注意してください。

ロシア革命により誕生したソ連軍は、日本をはるかに超えるスピードで軍拡へと走りました。日本がシベリア出兵を行った 1918(大正7)年8月の時点のソ連軍の兵力は33万です。

ところが同年末には80万に増強され、1920(大正9)年1月には300万に膨れあがっています。それでも兵力の増強は止まることがなく、年末には550万もの大軍隊がロシアの地に誕生しています。

ソ連の国家元首にあたる最高会議幹部会議長を務めたクリメント・ヴォロシーロフは、1930(昭和5)年から1939(昭和14)年までの10年間に、ソ連軍がどれだけ強くなったのかについて、次のように報告しています。

「ソ連軍の戦車は四十三倍、飛行機は六・五倍、砲は七倍、対戦車・戦車砲は七十倍以上、機関銃は五・五倍、兵一人当りの機械力馬力数は三馬力から十三馬力に増強された」

大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

日中戦争
wikipedia:クリメント・ヴォロシーロフ より引用
クリメント・ヴォロシーロフ1881年 - 1969年
ソ連の軍人・政治家。ツァーリツィン(のちのスターリングラード)防衛の最中、スターリンと緊密な関係を築く。その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員・党中央委員・北カフカーズ軍管区司令官・陸海軍人民委員を経て、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌年には政治局員となった。1930年代の大粛清では、いわばスターリンの執行者として中心的な役割を果たす。

後に国防人民委員(国防相)に就任し、ソ連邦元帥の称号を得る。独ソ戦ではドイツ軍によるレニングラード包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任される。スターリンの死後、ソ連の国家元首にあたる最高会議幹部会議長に選出される。ソ連邦英雄の称号を2回受賞。

ソ連軍は短期間のうちに、まさに異常とも思えるほどの膨張を遂げたのです。

このような軍拡を可能にしたのは、1928(昭和3)年から開始された「五カ年計画」の成果です。五カ年計画によってソ連は、半封建的農業国であったロシアを近代的な大工業国へと飛躍的に変身させました。

ヴォロシーロフがソ連の工業化を急いだのは、ソ連の戦争能力を向上させるためです。「国の工業化がソ連の戦争能力を決定する」とヴォロシーロフは何度も繰り返しています。

国家の総力を挙げて軍事大国化を急ぐソ連こそは、まさに軍国主義国そのものです。ところが世界は軍国主義国日本とは呼んでも、軍国主義国ソ連とは呼びません。不思議な話です。

では、なぜソ連は異常なまでに軍拡に走ったのでしょうか?

それはマルクス・レーニン主義では、一般大衆を搾取し続ける階級が存在する限り、国内においては闘争、国家間においては戦争を継続すべきものとして捉えたからです。

レーニンは次のように述べています。

「戦争は偉大な災厄である。もし戦争がプロレタリアの利益に役立ち、資本主義との闘争のためのものであるなら、かかる戦争はそれがもたらす犠牲や被害に拘らず進歩である。革命階級は革命戦争を放棄し得ない。なぜならそれは嗤(わら)うべき平和主義のための自己否認を意味する」

ソヴィエト外交史研究 』田村幸策著(鹿島研究所出版会) より引用

日中戦争
wikipedia:ウラジーミル・レーニン より引用
ウラジーミル・レーニン 1870年 – 1924年
ロシアの革命家・政治家。学生時代から革命運動に参加、流刑・亡命生活を経て、二月革命後帰国。ボリシェビキを率いて十月革命を成功させ、史上初の社会主義政権を樹立。人民委員会議長としてソビエト連邦の建設を指導した。建国直後の干渉戦争と闘い、第三インターナショナル(コミンテルン)を組織して国際革命運動を指導、国際共産主義運動に多大な影響を与えた。

晩年は病に倒れるなか、民族問題における大ロシア排外主義をきびしく戒め、スターリンを党書記長から解任するよう求める遺言を起草した。マルクス主義を帝国主義の条件にあてはめて創造的に発展させた革命家と評されている。政治・経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承されている。

階級をなくして社会主義をうちたてない限り、この世界から戦争をなくすことはできないとレーニンは考えました。だからこそソ連は、世界を平和にするためにこそ戦争を行う必要があるのだと主張しました。

「ソ連の平和への努力は最高度の軍事的準備を伴はねばならない」とレーニンが語った通りに、ソ連はひたすら軍拡を推し進めたのです。

ソ連は誕生の瞬間からすでに、軍国主義の申し子としての宿命を負っていたといえるでしょう。

ソ連がどれだけの犠牲者が出ようと「進歩」とみなす「他国の階級を倒すための戦争」は、共産主義の立場から見れば解放であり、共産主義に属さない側から見れば純然たる侵略です。

このようなソ連と日本と、果たしてどちらが真の軍国主義国に値したかは、それほど難解な問いかけではないでしょう。

ー 日本の軍事力は他国に比べて強かったか ー

日本軍国主義の象徴ともされる学徒出陣

当時のソ連と日本の軍事力を比べてみると、ソ連の方がはるかに日本を上回っています。ロシア革命以降、急激に軍備を増強するソ連軍に対し、地理的に近い日本が脅威を感じたのは当然のことです。

ソ連に対抗するために、日本もまたソ連の五カ年計画を参考に、産業の近代化と軍備増強を計ることになったのです。

そのことをもって日本の軍備増強のみを世界の平和に対する脅威であると、アメリカやイギリスは見なしました。

では、当時の主要国における陸軍の兵数を比べてみましょう。下の図は、満州事変と日中戦争直前の主要国の兵力数を表しています。

日中戦争
『大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

軍事的な脅威とされた日本軍の兵数は欧米諸国や中国と比べてかなり巨大かと思いきや、表を見比べる限り、もっとも兵数が少ないことがわかります。

八カ国中の八位という有り様です。表だけを見て「どの国が果たしてもっとも平和主義の国か」と問われたなら、兵数がもっとも少ない日本と答える人が、きっと多いことでしょう。

もちろん、兵力の差のみが軍事力を決定付けるわけではありません。しかし、日本の人口は中国・アメリカ・ソ連には及ばないものの、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアを上回っています。それなのに総人口に比して兵数が少ないという事実は、日本の軍備増強が「日本軍国主義」と叩かれるほどには膨大でなかったことを物語っています。

「日本軍国主義」のイメージは、膨れあがった虚像といえるかもしれません。

軍事力の強大さからみても、他国への侵略を露わにする国家の体質から見ても、少なくとも日本は軍国主義国家ソ連の足下にも及ばなかったといえるでしょう。

その4.専守防衛に徹した張鼓峰事件

ー 張鼓峰事件のあらまし ー

次に、東京裁判にて日本軍によるソ連への侵略とされた張鼓峰事件について振り返ってみます。

張鼓峰は満州国東部とソ連が国境を接している山の一つです。満州国とソ連との国境線は清国とロシアが交わした条約に基づいていますが、ロシア語と漢文で国境線が異なっている箇所もあり、国境線が定かでない場所もいくつか存在していました。

日中戦争
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/futuin/nomon.htm より引用
張鼓峰とノモンハンの位置を表す地図

そのため日本とソ連の間で国境紛争が数多く発生していました。日本側はソ連に対して話し合いによって国境線を明確にすることを幾度となく提案してきましたが、ソ連側はこれを拒否し、紛争が発生した場合のみ討議すべきであるとの主張を繰り返しました。

国境線が曖昧(あいまい)なことは、侵略意図をもっている側にとって好都合であることは、説明するまでもないことです。国境線を明確に定めることを拒否したのは、いつもソ連側でした。

張鼓峰も国境線がはっきりしていない場所です。ロシアと清国が交わした条約によるとロシア語では張鼓峰とそれに連なる丘陵の東側がロシア領であると主張し、漢文では頂上を越えて高地帯の東側である張鼓峰と長池(ハーサン湖)の中間に国境線を引いていました。

日本は国境をめぐってソ連と紛争が起きることを恐れ、1936(昭和11)年3月以来、「国境不明確地域には配兵しない」方針をとっていました。張鼓峰にはも一兵も出していません。

ソ連も張鼓峰の頂上には、これまで兵を進めることはありませんでした。

ところが1938(昭和13)年7月9日、突然ソ連軍が張鼓峰の頂上に姿を現し、満州国側である西側斜面に陣地を構築し始めたのです。ロシア語の条約に従えば張鼓峰の頂上まではソ連領になりますが、頂上から西側は明らかに満州国領です。

つまりソ連側は国境線を越え、満州国内に勝手に陣地を築いていることになります。これは日本側から見て明らかな国境侵犯行為でした。

日本側はあくまで外交交渉で事態の解決を図る方針をとりました。西春彦駐ソ代理大使がソ連のストモニャコフ外務次官に抗議し、ソ連軍の撤退を求めています。

しかし、ソ連側は事件発生地点はソ連領だと主張し、撤退を拒否しました。そこで日本は万一の事態に備え朝鮮軍(張鼓峰は朝鮮国境に近いため、関東軍ではなく朝鮮軍が防衛にあたっていた)を張鼓峰の正面に展開させますが、武力行使は中央の指令があるまで行ってはならないと厳命しました。

日本側は重光駐ソ大使がソ連に対して重ねて張鼓峰での「不法行為」について抗議しましたが、ソ連側にまたも拒絶されます。

そんな折り、7月29日にソ連軍が今度は張鼓峰の北方約二キロにある沙草峰に進出し、再び陣地を作り始めたのです。ソ連軍による度重なる国境侵犯に危機感を強めた日本軍は、沙草峰へのソ連軍の侵攻を張鼓峰とは別の新たな侵攻であると判断し、ついに反撃を開始しました。

かくして日本軍とソ連軍は交戦状態に入りました。張鼓峰からも砲撃を受けたため、沙草峰と張鼓峰のソ連軍に対しても日本軍は反撃し、夜襲の成功によって翌朝には両嶺を占領しました。

それでも日本は漢文で示された国境線を越えてソ連領に入ることはしませんでした。国境線を一歩も超えてはならないとの陸軍中央の支持を守ったのです。

張鼓峰事件において、日本軍は一度たりとも国境線を越えませんでした。

ー 圧倒的な戦力差なれど、国境侵犯を許さず ー

日中戦争
『張鼓峰事件 1938』山崎雅弘著(六角堂出版)より引用
張鼓峰事件のあらましを表す地図

8月1日からソ連軍による猛攻が始まりました。ソ連は張鼓峰と沙草峰を取り返すために、100機を超える空軍機を戦場に送り、日本軍を爆撃しました。

さらに戦車150両も投入され、日本軍に襲いかかりました。戦力の差は歴然としていました。ソ連軍がもっている大砲は60門、対して日本軍はその3割にも満たない17門を有するのみです。

戦局の拡大を防ぐため、軍中央は航空部隊も戦車もいっさい投入することを禁じました。現状のまま専守防衛に徹するようにと命じたのです。それは現地軍からすれば、あまりにも過酷な命令でした。

張鼓峰事件において、ソ連軍と日本軍で投入された戦力を比較したのが下の表です。

日中戦争
大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

歩兵の数は常にソ連軍が日本軍の2倍から3倍、大砲の数でも3倍、戦車と飛行機に関しては日本軍がまったく投入しなかったにもかかわらず、ソ連軍は大量に戦場に送り込んでいます。

客観的に見て、これだけ戦力に差が付いてまともに戦えるとは考えられません。ソ連軍の戦車に対して、日本軍は体当たり覚悟で近づき、爆雷を投げつけるなど肉はく戦に活路を見出すよりありませんでした。あまりの激戦に日本軍は手榴弾さえ事欠く有り様でした。

日中戦争
ウィキペディア より引用
沙草峰にてソ連軍戦車に肉迫攻撃する川村上等兵等。日本軍は戦車に対して肉はく戦で戦うよりなかった。

五二高地と名付けられた陣地には200両もの戦車が押し寄せ、3倍から4倍のソ連兵が100機から150機の航空戦力による支援を受けて襲いかかってきました。戦車も飛行機も投入していない日本軍は裸同然です。

しかし、数時間の激闘に耐え、日本軍は五二高地を守り抜きました。ただし、被害は甚大でした。この戦いだけで、戦闘についた3400人の兵のうち戦死者300人、負傷者700人に達しています。まさに死闘でした。

圧倒的な戦力差があるにもかかわらず日本軍は専守防衛に徹し、張鼓峰と沙草峰の頂上を守り抜いたのです。

8月10日、重光駐ソ大使によるソ連との停戦協定がついに成立し、10日の夜12時の時点で停戦となることが決まりました。停戦時間まであとわずかとなり、最後にソ連軍は火力を集中させ猛攻撃に出ましたが、日本軍は頂上を占拠し続けました。

日中戦争
wikipedia:重光葵 より引用
重光葵(しげみつ まもる) 1887(明治20)年 - 1957(昭和32)年
第二次世界大戦期の日本の外交官(外相)・政治家。満州事変当時は駐華公使。1943年11月の大東亜会議を開くために奔走した功績は高く評価されている。敗戦後は日本政府の全権として降伏文書に署名した。東京裁判ではA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受ける。釈放後は外相として日本の国連加盟を成功させた。

ソ連軍による国境侵犯をついに許さなかったのです。

こうして張鼓峰事件は終わりました。総動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1,500名、ソ連軍3,500名でした。

ところが……。停戦を受けて日本軍が全軍撤退した後、あろうことかソ連軍は初めに陣地を構築した場所に20キロに渡って鉄条網を張り、野戦陣地を構築してしまいました。根拠が不明なまま、ソ連は自らが一方的に主張する国境線を力尽くで確保したのです。

それは完全なだまし討ちでした。

ー 侵略したのはどちらか ー

日中戦争
ウィキペディア より引用
ソ連軍機による張鼓峰爆撃。空からは爆撃機、陸からは戦車を用い、圧倒的な戦力で攻撃された。しかし、歴史はこれをもって日本軍によるソ連侵略と断定した。

以上が張鼓峰事件の概略です。張鼓峰事件は東京裁判にて次のように判決されました。

「裁判所は、日本側の攻撃を正当化する唯一の理由となるソ連が口火を切ったといふことの証拠を少しも見出すことができない。すべての証拠から見て、本裁判所は、ハサン湖に於ける日本軍の攻撃は、参謀本部と陸軍大臣としての板垣とによって故意に計画されたといふ結論に到達した。その目的は同地区のソビエト側の勢力を打診してみるか、ウラヂオストアクと沿海洲への交通線を見下す高台の戦略上重要な地点を奪ふかのどちらかであった。

相当の兵力を基にして計画され実行された攻撃なので、これを国境警備隊間の単なる衝突と見倣すことはできない。日本側が先に敵対行為を開始したといふことも本裁判所が満足するところまで立証されてゐる。当時存在してゐた国際法と、予備的外交交渉で日本側代表がとった態度とを考慮すれば、日本軍の作戦行動は明白に侵略的なものであった」

大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

戦略的価値のまったくなかった張鼓峰から日本軍がソ連を侵略する周到な計画を立てていたとの判断は、もはや滑稽(こっけい)としか言いようがありません。

紛争が拡大しないように戦車も飛行機さえも投入しなかった日本軍と、惜しみなく戦車も飛行機も大量に注ぎ込み、圧倒的な兵力で押し寄せたソ連軍と、果たしてどちらが侵略する側であったのか、あまりにも明らかです。

張鼓峰事件の判決は、茶番劇としての東京裁判を象徴しています。

その5.ノモンハン事件の真相とは

ー ノモンハン事件とは ー

張鼓峰事件よりもさらに大きな武力紛争に発展したのが、ノモンハンです。ノモンハンは外モンゴルと満州国が接する地域です。草原と砂漠が続くだけに、もともと国境線が定かではなかった場所でした。

日中戦争
愚かさの序章 第2次大戦の始点となった「ノモンハン事件」』(朝日新聞社)より引用

事の発端は満州人とモンゴル人による草原の奪い合いです。満州国の後ろに控えていたのは日本の関東軍であり、モンゴル国の後ろに控えていたのはソ連軍でした。満州人は関東軍に訴え、モンゴル人はソ連軍に訴え、子供の喧嘩に親が出ていくように関東軍とソ連軍が血を流す結果となったのです。

かくして1939(昭和14)年の5月から9月までの約4ヶ月にわたり、日満(日本と満州)軍とソ蒙(ソ連とモンゴル)軍との間で激しい戦闘が繰り返されました。局地的な戦闘というよりは、「戦争」と呼んだ方がふさわしい激闘でした。

日中戦争
ウィキペディア より引用
ノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士

陸軍中央は張鼓峰事件と同じく不拡大方針をとり、「侵されても侵さないこと」を望みました。一方、関東軍は張鼓峰事件にて朝鮮軍が専守防衛に徹したことで苦境に立たされ、結局のところ国境線を侵犯された過程を見ているため、「侵さず侵されず」を軍の方針としました。

中央の命令を無視したまま、戦線は拡大しました。張鼓峰事件のときのように「何があっても絶対に国境線を越えてはならない」とする原則も守られることはなく、戦略上必要であれば一時的に国境線を越えてもよいとされました。

ソ連軍に対抗して、今回は戦車も飛行機も投入されました。しかし、ソ連の近代化された機械化軍団の前に日本の軽戦車はたちまち撃破され、ノモンハンの守備にあたった師団は全滅に近い損害を出し、日本軍は大敗したとされています。

ー 停戦をめぐる駆け引き ー

日中戦争
https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/ より引用
ノモンハンにて日ソの停戦が成立

そこへ9月1日、世界を揺るがすニュースが駆け巡りました。ドイツがポーランドに侵攻したことにより、第二世界大戦がいよいよ始まったのです。

これを受けて大本営は関東軍に対して攻撃中止を命じました。それでも関東軍がなお攻勢を主張したため、ついに関東軍司令官をはじめ参謀長などを更迭するに至りました。

ソ連側の主張する国境線を認めることで、ノモンハン事件の停戦協定が成立したのは9月15日でした。

その2日後、またも電撃的な報道が世界を震わせました。ソ連軍もポーランドに侵攻したのです。実はドイツとソ連との間で秘密協定が交わされており、ポーランドを分割して統治する取り決めが予め為されていました。ソ連はさらに、ポーランドの北方にあるフィンランドへも11月に侵攻しています。

もちろん、ノモンハンの停戦協定を結ぶ時点で日本側がそのような計画について知るはずもありません。されどもし日本側が停戦を望まず、停戦協定が結ばれていなかったとしたなら、果たしてソ連によるポーランドとフィンランドの侵攻が行われていたかどうか、疑問が残るところです。

ノモンハン事件の責任をとるかたちで、参謀本部でも稲田正純作戦課長などが更迭となり、新たに武藤章が陸軍省軍務局長に就任しています。武藤の登場により、大東亜共栄圏の構想は次第に具体化されることになります。

日中戦争
wikipedia:稲田正純 より引用
稲田正純(いなだ まさずみ) 1896(明治29)年 - 1986(昭和61)年
大正-昭和時代の軍人。最終階級は陸軍中将。フランス陸軍大学に留学後、参謀本部作戦課長となり、日中戦争の拡大を成し遂げた。ノモンハン事件の処理に当たる。大東亜戦争勃発時は第5軍参謀副長。その後南方を転戦、インパール作戦実施に強硬に反対し更迭された。

第六飛行師団長心得としてニューギニア島のホーランディアに駐屯していた際、米軍の奇襲上陸を受け、大部分の部下を見捨てて後方に脱出したことで停職二か月の処分に付された。敗戦時は本土決戦の主戦場に予定された九州地区の第16方面軍参謀長。九大における捕虜の生体解剖事件と敗戦時の米軍機乗員の捕虜殺害事件の責任を問われ、B級戦犯として巣鴨拘置所に収容、のちに釈放。

日中戦争
wikipedia:武藤章 より引用
武藤章(むとう あきら) 1892(明治25)年 - 1948(昭和23)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。軍務局長となり東條英機の腹心として活動。対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A 級戦犯として死刑。

ー ノモンハンの勝敗が分けた日本の運命 ー

日中戦争
ウィキペディア より引用
壊れて動けなくなったソ連軍装甲車の横で九二式重機関銃を撃つ日本兵、ノモンハン事件で有名な写真の一つ

ノモンハン事件のあらましについて紹介しましたが、今日では新たな発見により、ノモンハン事件の評価が大きく塗り変わっています。

ソ連崩壊に伴いノモンハン事件の秘密資料が公開されたことで、ノモンハン事件の真相が明らかになりつつあるからです。

ノモンハンに投入された日本軍は3万、そのうち戦死傷者は1万7千人とされています。従来まではソ連軍の戦死傷者が8千人と発表されていたため、ノモンハンで日本軍は大敗したと見なされていました。

そのため、近代化されたソ連の軍備と日本の貧相な軍備が槍玉に挙げられ「ノモンハンでの反省を活かせないまま大東亜戦争に突入して、日本はまたも大敗した」と一般的には総括されていました。

ところが、公開されたソ連の資料によると、参戦した7万7千人のうち戦死傷者が 2万6千人にも上ることが判明したのです。

さらに、日本軍の戦車の損失が 29台、飛行機の損失が 179機であったのに対し、ソ連は戦車・装甲車両 800台以上、飛行機 1673機を失っていることがわかっています。

こうなるとノモンハンで大敗したという従来の通説は覆ってしまいます。当時の参謀本部はノモンハンでソ連に大敗したという認識のもとで、その後の方針を定めています。

日中戦争
ウィキペディア より引用
ソ連軍の戦車・装甲車を捕獲して万歳する日本軍兵士

当時の日本の仮想敵国はアメリカとソ連でした。ソ連軍が強いという認識の上でソ連との戦いを避け、南進へと大きく傾いていくことになったのです。日本軍の南進はアメリカ・イギリスとの対立を招き、大東亜戦争へとひた走る結果となりました。

もし、ノモンハンにてソ連軍は大したことがないという認識に立っていたならば、日本は南進ではなく北進を選び、戦う相手をアメリカではなくソ連に据えていたのかもしれません。

ノモンハンの勝敗の行方は、日本の進むべき道を180度変えたといえるでしょう。

ともあれノモンハンで大敗したと日本側が受け止めたことで、歴史は日米開戦へ向けていよいよ動き出すことになります。

なぜ日米開戦へと至ったのか、その詳細については章を改め、第4章としてお届けします。

ここまで大航海時代から始まるヨーロッパ列強による侵略の実態から始め、明治以降の日本の軍事大国化の過程を追いかけてきました。そのすべての流れがひとつとなり、奔流となって日米開戦へと流れ込むことになります。

従来の通説である「日本が一方的に侵略した」という固定観念で歴史を見つめるのであれば、日米開戦に至る事情は簡単に説明できます。

しかし、日中戦争をつぶさに検討してみれば明らかなように、日本の侵略だけでは片付けられない複雑な背景が、歴史には埋もれています。

教科書には載っていない日米開戦の物語を、次回より紐解いていきます。

参考URLと書籍の一覧はこちら

完全網羅シリーズ#8 セブ島留学の留学相談・申し込み方法

$
0
0

こちらではフィリピンセブ島留学の「申し込み方法から気をつけるべき落とし穴」についてご紹介します。

この記事を読んでいただくと、次のことがわかります。

  • セブ島留学の情報収拾や申し込み方法
  • セブ島出発までの流れ
  • 直接学校へ申し込むべきか、エージェント経由が良いかの判断

セブ島留学への申し込みまでの流れ

1.情報収拾はここから

まずは情報収拾です。

「セブ島留学とは?」
「セブ島とはどういうところか?」
「どこの学校が良いか?」

などなど、留学前に知りたいコトはたくさんあります。

セブ島には現在100近い語学学校があります。「オリジナルのメソッドがある学校」や「ビーチがある学校」「多国籍な学校」など様々です。しっかり調べて自分にあった学校を探してほしいと思います。

「セブ島留学ってどんな留学なの?」という方は、こちらの記事を読んでみてください。イラストで全体像をわかりやすく解説しています。
https://ceburyugaku.jp/44391/

当サイト以外にも個人のブログやフェイスブック、インスタ、留学エージェントのサイトなどいくつかると思います。

2.留学相談・問い合わせ

このサイト内でもセブ島にある語学学校をご紹介しています。TESDA(フィリピン政府が認可した証明書)を取得している正規の語学学校で、かつ留学エージェントに掲載していないけどおすすめしたい学校も掲載しています。

https://ceburyugaku.jp/27811/

学校の公式サイトのリンクがありますので、気になる学校があればぜひ問い合わせしてみてください。学校への問い合わせフォームを設置している学校ページもあります。

というのも、学校への問い合わせをしてみてほしいのには理由があります。

1. 学校のことを一番詳しいのは学校スタッフ
学校のことを一番詳しいのは、その学校のスタッフです。ホームページに載っていない細かい情報も聞くことができます。

特に、空き情報は学校に問い合わせないとわかりませんので、留学期間や部屋タイプなどをある程度決めたら、問い合わせてみると良いです。部屋の違いについて詳しく聞くこともできます。

2. 問い合わせの返事で学校の雰囲気がわかる
留学前に学校に自分で問い合わせをし、その学校の雰囲気を知ることは重要です。

何校かに問い合わせすると分かりますが、すぐ丁寧なメールが返ってくる学校もあれば、時間が掛かっても定型文のような返事しか返ってこない学校もあります。

3.学校の説明会への参加

可能であれば、留学エージェントではなく学校の説明会へ参加しましょう。
留学エージェントの説明会は学校を比較するためには役に立ちますが、本当にコアな部分は学校の直接の説明会でしか分かりません。

実際に話を聞くと学校の雰囲気がつかみやすく、その場で疑問点を解決出来ます。公式サイトでは紹介しきれない情報や写真、実績を提供してくれ、その学校を選ぶ決めてが見つかるはずです。

一つだけ言えるのは、説明会で他校をけなすような学校は辞めたほうが良いです。品のない運営者がいる学校は、品のない学校をつくり、品のない人たちを集めます。

数々の語学学校オーナー(経営者)や現地の校長(ジェネラルマネージャー)と話をしてきて感じたのは、学校文化は結局、オーナーや現地の校長が思い描いたものになるという事です。

説明会に参加することで文字では感じ取れな方、学校の雰囲気が伝わってきます。違和感を感じたらその学校は辞めましょう、あなたにとっておすすめではないです。逆にコンセプトや雰囲気に魅力を感じたらその学校はGO!です。

学校の留学費用やメソッド、コースも大事ですが、英語力が伸びる伸びないは、その学校を「信じ抜く事が出来るか、出来ないか」で決まります。
というのも、誰しも留学中に伸び悩む時があり「本当に自分の選択は正しかったのか?」と思う時が出てきます。

その時に「自分はベストな学校選びが出来たはず、だからあとは自分次第!」と思えれるかどうかで、その後の過ごし方が変わってきます。
出来れば一度学校説明会に話を聞きに行って、ベストな選択をしてもらいたいです。

*時間が都合できない方や地方にお住いの方は、電話やスカイプでの相談もできます。
https://ceburyugaku.jp/venue-of-the-seminar/

留学エージェントってどうなの?
セブ島の語学学校を紹介する留学エージェントというものがあります。
留学エージェントにはメリットとデメリットがあり、メリットは「色々な学校を比較して紹介してくれる事」です。これは留学エージェントしか出来ないことです。

逆にデメリットは「留学エージェントが紹介していない学校は紹介されないこと」「留学エージェントに支払う手数料が少ない学校は、紹介される優先度が下がること」です。
そもそも留学エージェントに登録していない学校は、エージェントが紹介しようがありませんし、紹介してもほとんど手数料をもらえないような学校は、エージェント側も商売ですので紹介が難しいでしょう。

これらの事情を把握した上で利用されるのが好ましいです。

https://ceburyugaku.jp/7797/

3.申し込み

留学したい学校が決まったら、「申し込み」をします。

まずは問い合わせをして、空き情報や見積もりをもらってそのまま申し込みする、という流れの人が多いです。

何校かに問い合わせをしてみて比較し、自分が納得した学校に申し込むというのがベストです。学校とのミスマッチを無くすためにも、申し込み前に疑問点はしっかり確認しましょう。

学校によっては、留学中に現地でコース変更や宿泊先の変更が可能な学校もありますので、可能性がある人は事前に確認すると良いです。アップグレードの場合には対応してもらえることが多いです。

留学費用の振込のタイミングは学校によっても異なりますので、確認してみてください。

いつまでに申し込みすればよい?
ピークシーズン(2、3月や7、8月またはGW、年末年始など)とそれ以外のシーズンで異なります。ピークシーズンは、直前(1ヶ月前)の予約だと人気校では空きがないことが多いです。3ヶ月前でも部屋タイプによっては埋まってしまいます。

多国籍な学校では、日本のピークシーズンと異なる場合ありますので、注意してください。

反対に学校に空きさえあれば、1週間前の申し込みでも間に合います。(パスポートがあり、すぐ留学費用を入金できる場合)

留学費用はいつ申し込んでも変わりませんが、航空券代は買う時期によって価格の変動が大きいです。直前での航空券購入は高額となる場合が多いので、なるべく早めに留学日を決めて航空券も購入できると良いです。

2月〜3月、8月〜9月の留学は3ヶ月以上前の予約がベストです。

4.留学準備

語学学校へ留学の申し込みをしたら、留学準備です。

まずは航空券。留学を申し込み後、なるべく早く購入することをおすすめします。航空券は、先の日程だと安く、出発日直前は値段が上がることがほとんどです。

また、フィリピン入国の際は、必ずフィリピンを出国をする航空券を持っている必要があります。これがないと、フィリピンに入国することができません。

セブ島留学に必要な持ち物

最低限必要な持ち物は、

1. パスポート
2. 海外旅行保険
3. クレジットカード
4. 現金

です。日本のメーカーやブランドにこだわらなければ、セブ島でもショッピングモールに行けばだいたいものは揃います。

持ち物については詳しくはこちらの記事にまとめてあります。

1. パスポート
パスポート
現在パスポートをお持ちでない方は、取得しなければなりません。また、パスポートの有効期限が留学期間ない方は更新する必要があります。

2019年2月現在、フィリピン入国には、留学期間分のパスポートの有効期限があれば大丈夫です。他国で一般的な6ヶ月以上のパスポートの有効期限というのは必要ありません。ただ、今後変更される場合もありますので、詳しくは留学先の学校にご確認ください。

参考)パスポート新規取得(東京都の場合)
パスポートは申請してから受け取るまでに6日かかります。(土曜・日曜・祝日・国民の休日・年末年始を除く)

ビザですが、セブ島留学はセブ島到着後(入学後)に学校が「学生ビザ」を代行して取得してくれます。日本で事前に取得する必要はありません。

基本的には費用を払えば取得できると思っていて良いのですが、心配な方は学校にご相談ください。

2. 海外旅行保険
海外旅行保険
海外旅行保険は必ず加入しましょう。

保険があれば、セブ島で体調を崩したり、ケガをした時に無料で病院に行くことができます。万が一盗難にあった場合などでも保障されます。

・海外旅行保険に加入
・クレジットカードに付帯している保険

保険はこの2種類ありますが、内容が充実しているのは海外旅行保険です。オンラインですぐに加入できます。学校によってはクレジットカードの保険ではなく、海外旅行保険の加入を義務付けているところもあります。

海外旅行保険についてはこちらの記事をどうぞ
https://ceburyugaku.jp/56393/

3. クレジットカード
クレジットカード
クレジットカードもあった方が良いです。

セブ島で使えるのは広く使えるのは、VISAとMASTERカードです。JCBは使えるところが増えてきましたが、DINERS、アメリカン・エクスプレスは高級ホテル以外はほとんど使えません。

また万が一に備えて、海外キャッシュングを使えるようにしておくと、セブ島のATMでフィリピンペソを引き出せますので、とても便利です。

https://ceburyugaku.jp/23934/

まとめ

セブ島留学の情報収集から留学までの流れについてご紹介しました。

シリーズの記事を読んで、ご不明な点がありましたら、お気軽にご連絡ください。

セブ島留学 完全網羅シリーズ
完全網羅#1 セブ島留学ってどんな留学?
完全網羅#2 セブ島留学の費用
完全網羅#3 セブ島の基本情報
完全網羅#4 セブ島の治安ガイドライン

完全網羅#5 授業施設&宿泊施設
完全網羅#6 学校選び&コース選び
完全網羅#7 セブ島留学がある1日
完全網羅#8 留学相談&申込方法

完全網羅#9 セブ島留学中の食事
完全網羅#10 セブ島観光客を狙う犯罪行為
完全網羅#11 セブ島でかかりやすい病気
完全網羅#12 食事ガイドライン

セブ島・オンライン留学説明会 ―どこでも良いと言われるのが一番悲しいー

$
0
0

オンラインで留学説明会を行う事にしました。セブ島留学に精通しているだけでなく、セブ島の生活にも詳しい留学カウンセラーが、ZOOMというオンラインのミーティングシステムを使って詳しく留学の説明を行います。

今までは東京のオフィスで留学説明会を定期的に行っていましたが、これからはオンラインでも行う事にします。

東京に来れななかった人に向け、世界中どこからでも参加できるオンライン留学説明会を行う事にしました。

一番残念なのは、セブ島留学ならどこでも同じだと思われてしまう事です。これはQQEnglishだけが特別に良いと言っているわけではありません。セブ島留学にはいろいろな学校があってそれぞれ特徴があるからです。

オンライン留学説明会に参加して是非、QQEnglishの特徴を知ってもらいたいと思っています。

―オンライン留学説明会でお話しする内容を少しお話しすることにしますー

安全で快適な環境

フィリピン留学と言うと、危険、汚い、怖いといった印象があります。

しかし、QQEnglishの一番のこだわりは安全で快適な環境なのです。セブ島に2つあるキャンパスの特徴をご説明します。

ITパーク校

QQEnglishITパーク
ITパーク校は、元セブ市の飛行場だったところをフィリピン政府が経済特区として再開発したセブ島で一番安全と言われるITパーク内にあります。

ゲートが6か所しかなく24時間ガードマンがいる街です。広大なエリアはリトルシンガポールと言われ、レストランだけでも70件以上あり、スターバックスなどのオシャレなカフェ、スポーツジム、そして屋台村まであります。

安全が担保され、環境が良いので多くの外資系企業がたくさん集まっています。QQEnglishのあるビルには京セラさん。お隣のビルにはNECさん。それ以外にもJPモルガンさん、アメリカンホームダイレクトさん、IBMさんなど世界の一流企業がオフィスを構えています。留学生が安全にそして、快適に過ごせるのがITパーク校なのです。

シーフロント校

QQEnglishシーフロント校
シーフロント校は、セブの高級リゾートホテルがたくさん集まるエリアにあります。隣りは5つ星ホテルで見える景色は一緒です。なんと隣りのホテルに5泊すれば、同じ値段でQQEnglishに1ヶ月3食付いて滞在して、8時間英語の勉強ができるのです。

海沿いに立つシーフロント校は元日系のホテルを改修して作っています。学校内にプール、レストラン、コーヒーショップ、バー、スポーツジム、ランドリーショップまであります。学校から出ないですむ設備が整っているのです。高級リゾートにあるシーフロント校は最高のロケーションだけでなく安全が担保されています。

セブ島には数多くの英会話学校がありますが、学校内にビーチがあるのはQQEnglishだけではないでしょうか。

英語の上達最優先

QQEnglishは、日本人が一番初めに作った本格的な英会話学校です。現在、教師が1200名いるフィリピン最大の英会話学校になっています。

私たちのプライドは高品質です。日本人が作るメイドインジャパンの学校は高品質でなくてはなりません。QQEnglishのQQはクイック&クオリティなのです。

QQEnglishにいる1200名の教師はすべて正社員で、TESOLと言われる外国人に英語を教える国際的な資格を持っています。パートの教師は一人もいません。すべてしっかりとトレーニングを受けたプロの教師なのです。私たちは常に英語の上達最優先で考えています。

留学前も留学後も学べる

QQEnglish
QQEnglishの利点は留学前に試して見れることです。「セブ島留学ってどうなの?」と思っている方は、QQEnglishのオンライン英会話を試してみてください。留学前にフィリピン人教師の発音やスキルをチェックすることができます。

そして、一番の利点は帰国してからも同じ先生、同じ教材で英語の勉強を継続できることです。たとえ留学しても帰国して英語を使わなかったらすぐに忘れてしまいます。

しかし、QQEnglishには英語を継続して学習できるシステムがあるのです。留学する前も、留学後も学べるのがQQEnglishの大きな利点だと思います。

世界中から集まる生徒

QQEnglish
QQEnglishにはたくさんのインタナショナルスタッフがいます。日本人、フィリピン人だけでなく、アメリカ人、イギリス人、中国人、韓国人、台湾人、ベトナム人、タイ人、イラン人、サウジアラビア人、ロシア人、スペイン人、ブラジル人がセブ島に常駐しているのです。それは世界中にオンライン英会話を提供しているからです。

セブ島留学にもたくさんの国から来ています。オンライン英会話を通じてセブ島留学にくるので、世界20ヶ国以上の国からたくさんの生徒さんが来ています。

オンライン英会話を併せ持つQQEnglishは、とてもインターナショナルです。

カランメソッド正式認定校

QQEnglishは、イギリスのロンドンで人気があるカランメソッドの正式認定校として有名です。カランメソッドは徹底反復によって4倍の速さで英語が伸びると言われています。なんとケンブリッジ検定に4分の1の速さで受かってしまうのです。

QQEnglishと明治大学との実証実験でも、TOEICのスコアーが平均110点伸びたという驚異的結果がでたメソッドです。

QQEnglishは毎年ロンドンからトレーナーを招き常にトレーニングをしています。セブ島留学で本格的なカランメソッドが行える英会話学校なのです。

※明治大学との実証実験によるTOEICの結果※
QQEnglish
【条件】約80時間のカランメソッドをQQEnglishのマンツーマンレッスンで行う

良いものを安く

QQEnglishは教師が1200名いるフィリピン最大の英会話学校です。なぜ、ここまで大きくなれたかと言うと良いものを安く提供できたからです。良いものを作っても高かったらここまで早く大きくなれません。最高のものを安く提供できたのでフィリピン最大の英会話学校になることができたのです。

QQEnglishはオンライン英会話とセブ島留学を組み合わせることにより効率がいい学校を作っています。オンとオフを融合させているのです。

セブ島で一番安全なエリアにあるITパーク校もシーフロント校も、家賃がとても高い場所です。

しかし、QQEnglishは3交代で24時間使っているのです。朝5時に来た先生は朝9時までオンラインで世界中の生徒さんに教えます。そして、朝の9時から14時までセブ島留学の生徒さんに教えます。

また、14時来た先生は18時までセブ島留学の生徒さんに教え、18時から24時までオンラインで教えるのです。24時から朝まで中東、ロシア、ヨーロッパ、ブラジルなどの生徒さんにもオンライン英会話で授業を提供しています。

QQEnglishはオンとオフを融合させることにより、高品質なだけでなく、コストパフォーマンスが良い学校なのです。

オンライン留学説明会

QQEnglish
今までは留学説明会に来て頂かなければ説明することができませんでした。

しかし、これからは違います。北は北海道から南は沖縄までどこからでも参加して頂けるのです。そして、そして、海外からでも参加して頂けます。

準備して頂くのはPCとインターネットの環境だけです。事前準備もQQEnglishから送られてくるメールから1~2分でできます。

最大の特徴は動画を流すのではなく、リアルタイムで留学カウンセラーがお話しすることです。通常の留学説明会同様、参加者の要望を確認しながら進めていきます。

チャット機能を使えば説明会の途中でも、わからないことや疑問の思ったことをすぐに質問できるのです。自宅にいながら簡単に留学説明会に参加できるのでぜひ試してみてください。

―どこでもいいからQQEnglishに来たと言われるのが一番悲しいー

ぜひ、自分の目的やこだわりを留学カウンセラーに話して頂き、QQEnglishが一番自分にあっていると思ったら来てください。

セブ島でお会いできることを楽しみにしています!

申し込みはこちら

オンライン留学説明会の申し込みはこちらから簡単にできます。

オンライン留学説明会を申し込む

QQEnglish代表
藤岡 頼光

QQEnglishの公式HPへ

【ストーリーシェア完全英語漬け校】徹底した英語縛り!日本語を話したくない方に最高の環境

$
0
0

ストーリーシェア完全英語漬け校舎(EOP)は10名から20名ほどの小規模でアットホームな語学学校です。

セブシティの中心街の近くにありますので、不便なく生活ができます。

ストーリーシェアの1番の特徴は、なんと言っても徹底した英語縛り!つまり、EOP(English Only Policy)にあります。*以下EOPと略します。

留学生は学校内はもちろん、学校外でも英語のみで生活してもらいます。

ここまですごいEOPの学校は他にありません。
独自の学習方法「サイクルラーニングメソッド (CLメソッド)」と合わせて徹底的に英語で考え英語で発信する能力、「英語脳」を作り上げる学校です。

ストーリーシェア完全英語漬け校舎 3つの魅力

1. 独自の学習メソッド サイクルラーニングメソッド(CLメソッド)

STORYSHARE
CLメソッドとは、最大限に脳の記憶定着システムを活性化させ確実に成長していく学習方法です。

これは言葉とイメージが結び付き、会話の幅やスピードを自然と上達させる方法です。

生徒が理解していないと答えられない問題を問いかけたり、応用問題としてリアルなシチュエーションの問題を問いかけることにより、実践的な英語を覚えられます。

2. 徹底したEOPシステム

STORYSHARE
ストーリーシェア英語漬け校舎は、フィリピン留学では最もEOPに厳しい学校の一つとなっております。

一般的にEOPを実施している学校は、一部のエリアのみと決めたり、校舎全体をEOPにしていても外では日本語を使ったり、ルールが徹底化されていなくて、案外日本語を使ってしまいます。

しかしながらストーリーシェアのEOP校は、小規模の強みを活かし、生徒自身が自らEOPを徹底する文化を作っています。EOP校にはそもそも常駐する日本人がいません。日本人が常駐することで日本語を話そうと思ってしまうためです(日本人マネージャーはほぼ毎日、様子を見に学校には来ておりますが)。

学校内では常に先生がEOPになるようにチェックしています。校外での英語縛りは一般的に難しいですが、少人数であるため一人一人に留学中EOPでいることがどれだけ重要か、他の留学生に「日本語で話しかけることが、どれだけその生徒へ影響を与えるか」を理解してもらった上で生活しているため、どんな状況でも自ら日本語を使おうとする人はほとんどいません。

CLメソッドと合わせて、生活のすべてを英語で行い、「英語脳」を作ります。

3. 学校内にゲストハウスを併設

STORYSHARE
学校内で同時にゲストハウスの運営も行っております。

日本人生徒、フィリピン人スタッフのみでなく、世界中から来るゲストとコミュニケーションを取る機会があるのもストーリーシェアの魅力です。
彼らとお酒を飲みに行ったり、ショッピングに行ったりする中で、授業で習ったことを試したり、世界中の英語に触れることができるため、本物の英語力が付きます。

学校の立地


グアダルーペというセブ市庁舎から徒歩5分の距離にあります。アヤラモールへは車で20分ほど。

大通りから一本中に入った静かな場所です。

ストーリーシェアはセブに2校舎あり、アパスというITパーク近くにも「ストーリーシェアベーシック校」があります。

学校施設

STORYSHARE
ストーリーシェア英語漬け校舎は、大きな一軒家を改築して作られました。一つの建物のなかに、学校施設と宿泊施設があります。

1階が学校施設。2,3階が宿泊施設です。

STORYSHARE
まずは学校施設からご紹介します。

STORYSHARE
学習はこういったオープンスペースで行います。気楽で、ラフな感じがいいですね。

STORYSHARE
勉強スペースは部屋だけでなく、宿舎内ならどこでも対応可能です。

STORYSHARE
留学生は1校舎に15人〜20人前後です。少人数校にしている理由は、EOPを徹底させるためと、生徒同士の交流を深めるためです。

英語縛りになると初心者の方にありがちなのが、日本語も英語も使わずに引きこもってしまうパターンです。英語でうまく伝えたい事を伝えることができないため、億劫になるためです。

ストーリーシェアのEOP校ではそうならないような工夫が随所で見られます。

STORYSHARE
アットホームな環境なので、先生との距離が近く、友達のように接することができるのもストーリーシェアの魅力ですね。

少人数制なので講師一人ひとりの実力をチェック&改善しやすく、授業の質を一定に保ちやすいといえます。

STORYSHARE
なお、冷蔵庫やレンジ、キッチンなども共有で使用することが出来ます。

STORYSHARE
余ったお部屋はAirbnbで一般の方に貸し出しており、常時3,4人は一般の旅行客がいます。国籍はアメリカ、フランス、ロシア、中国など様々。そもそも、Airbnbの説明文を英語で書いているので、英語がわかる方しか来ないようです。

授業・カリキュラム

コースは4種類。
1日4時間コース、6時間コース、8時間コース、更には10時間コースがあります。

コース名マンツーマングループコース説明
1日4時間コース50分×2コマ50分×2コマグループ授業は17時以降。(参加自由)
1日6時間コース50分×4コマ50分×2コマ1番人気のコース。グループ授業は17時以降。(参加自由)
1日8時間コース50分×6コマ50分×2コマグループ授業は17時以降。(参加自由)
1日10時間コース50分×8コマ50分×2コマグループ授業は17時以降。(参加自由)

STORYSHARE
授業は基本的にマンツーマン中心の語学学校です。カリキュラムも一般英会話からビジネス、TOEIC、IELTSなども対応しています。

以下はEOPのルールです。ストーリーシェア英語漬け校に興味がある方は、確実に目を通しておいてください。

英語漬け(EOP)校舎でのルール
・敷地内は個人の部屋でも日本語禁止
・外出先でも日本語禁止
・EOPを守っている人に迷惑を掛けない
・他の学校の生徒が日本語で話しかけてきても英語で応じる
・日本語校舎の生徒と日本人スタッフを介さない外出は禁止。(日本語を必ず話され、日本語脳になってしまうからです。)
・相手が英語がわからないレベルだとしても、日本語は使用しない。
・ただし、ヘルパー等は英語が話せませんので母国語で話しております。
・外出先で日本語を話し出すなど、迷惑行為の報告があった場合は確認の面談有り
・スカイプも校舎内での日本語は使用できません。
・ご家族への連絡など必要な際は外出先で行ってください。
・日本語を話した場合・迷惑行為の場合
  1回目:マネージャー面談
  2回目:マネージャー面談プラス警告
  3回目:翌日から計5日間の授業停止と最終警告(※授業停止中はハウス内に滞在は可能)
  4回目:退学。
・授業停止や退学による返金は一切ありませんので、十分ご注意下さい。
・2度目3度目の警告で他のハウスに移動したいなら可能。ただし、他に空きが無い場合は空きが出るまで不可。
・移動の場合は、差額の調整プラス手数料1000ペソを頂きます。
・4週間1タームとなり、1ターム毎に回数はリセットされます。痛い!危ない!など身を守る為に反射的に出てしまう単語はある程度までは見過ごしますが、あまりに多い場合は警告とさせて頂ます。

宿泊施設

宿泊施設は学校の2,3階です。

STORYSHARE
全室ベッドや勉強机はもちろん、エアコンを完備しています。EOP校舎は全部屋シャワー・トイレは共同となっています。

STORYSHARE
別の個室です。個室がメインですが、2人部屋もあります。

周辺環境

店名ジャンルコメント
Jollibeeレストラン徒歩5分。フィリピンではマクドナルドより人気の最大手ファストフード店。
AA BBQレストラン徒歩3分。フィリピン式BBQの専門店。フィリピン料理も楽しめるオススメのレストラン。
CNT Lechonレストラン徒歩10分。子豚の丸焼き「レチョン」の専門店。
Ayo Ayo Cafeカフェ・レストラン徒歩2分。カフェ兼軽食レストラン。WIFIあります。
The Generics Pharmacyドラッグストア徒歩3分。薬はもちろん、飲み物やスナックも購入できます。
セブンイレブンコンビニ徒歩3分。24時間営業です。
One Pavilion Mallショッピングモール徒歩7分。食料品スーパー、日本食レストランもあります。

学校詳細情報

設立年度
2014年
規模
最大約20人
国籍比率
90%日本人。時期よって他のアジア圏の生徒様がいます。
*2019年3月時点 国籍比率は時期によって変動します。
日本人スタッフ
1名
食事
平日:朝、昼、晩 ハウスキーパーが調理します
学校施設
エアコン、扇風機、ウォーターサーバー、喫煙所、WIFI
クラスルームはなく、生徒様はリビングやテラスにてリラックスして授業を受けることができます。
宿泊施設
殆どがシングルルームになっており、ご希望があれば複数人部屋もございます。
門限
18歳以下は22時、その他の生徒様には門限はございません。
入寮・退寮日
入寮日:日曜日
退寮日:土曜の昼
入学日
月曜日 : オリエンテーション
火曜日 : 授業開始
清掃
週に一度、ハウスキーパーが清掃します。
洗濯
30php/1kgにてハウスキーパーが代行します(畳まれた状態でお返しします)
主な学校規則
イングリッシュオンリーポリシー(EOP)
当校のEOPは非常に厳格です。校内はもちろん校外でも日本語の使用は禁止となっています。3回注意を受けると、4回目には退学処分となるなど非常に厳しくしています。
学校周辺
徒歩圏内にショッピングモール、コンビニなどがあります。
場所
セブシティ

留学費用

ストーリーシェアEOP校 英語縛り
*価格の一例です。詳細はストーリーシェアにお問い合わせください。
ストーリーシェア完全英語漬け校舎料金表 ストーリーシェア完全英語漬け校舎料金表 ストーリーシェア完全英語漬け校舎料金表 ストーリーシェア完全英語漬け校舎料金表

ギャラリー

学校

STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE

宿泊施設

STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE STORYSHARE

マナビジンからのコメント

学校代表とマネージャーにお話を伺いましたが、一番印象に残ったのは「EOPの徹底ぶり」でした。

宿題がたくさんあったり、夜遅くまで勉強をしなければいけない・・・というルールはありません(門限もなし)。その代わり唯一のルールは「留学期間中は絶対にEOPを守る」だけです。

そこに関しては留学前から説明し、留学初日に同意書を書き、ルールを破った場合は直るまで通告を行います。何回行っても変化がない場合は校舎を移動してもらいます。

フィリピン留学のスパルタ校と比較した場合でも、このEOPの徹底化が大きく異なります。

留学生同士で学校の外に出かける時も、日本語は禁止です。入学日に行われるオリエンテーションだけは、留学中の衛生面や治安についての大切な注意事項があるため、日本人スタッフが日本語で行なっています。

留学を検討している方からも「英語初心者レベルなんだけど、EOP校に留学しても大丈夫ですか?」という質問をよくもらうようですが、実際には英語初心者レベルの方が多いそうです。

通常、EOP校というと最低限の英語到達レベルを設けている学校が多いのですが、ストーリーシェアは「EOPのなかで英語の勉強を頑張りたい!」という生徒の気持ちを大事にしたいとのことで、初心者の方でもチャレンジする事ができます。

学校代表者からメッセージ

ストーリーシェア松本
松本文夫
自分にあった英語留学をするために

ストーリーシェアは10名から20名の少人数で大きな一軒家を使って学校を運営しています。

それは、先生と生徒がより親密になり、アットホームで楽しい英語留学にするためです。そして、質の高い先生をそろえるためでもあります。

カリキュラムが良くても教え方が統一されていなかったり、正しいメソッドではないと、英語は効果的に習得できません。

皆さんがご自分に合う学校をしっかりと選ぶことで、英語学習が成功し、効果的に英語を習得でき、より豊かな人生を送られることをお祈りしています。

学校直接問い合わせフォーム

料金のお見積もりや空き状況など、お気軽にお問い合わせしてみてください。
*ストーリーシェア完全英語漬け校から、すぐに折り返しのご連絡が届きます。

ストーリーシェア公式サイト

【ZA English Academy マボロ校】一般英会話から英語+αコースまで!多彩なニーズに応える語学学校

$
0
0

2018年5月に「ZA English Academy」の新校として、非常に綺麗で開放的なキャンパスがオープンしました。

寮と学校の一体型で、夜にはライトアップ可能な大小のプールが2つ。ランニングマシンなど、多種の器具が置かれている広めのジム。そして卓球台やお子様にも嬉しいキッズルームなど、放課後も外出することなく充実した時間を過ごすことができます。

マボロ校はキッズ~シニア層までのニーズを満たした充実した設備が整っています。

ベビーシッターとナースが常駐しているため、0歳~受け入れ可能です。キッズルームでは0歳~2歳のお子様が対象。3歳~はレベルに合わせたクラスを用意しているため、親御さんは安心して英語学習に励んで頂ける環境です。

セブでは珍しいインターンシップもでき、大学生の方~社会人の方に人気があります。シニア向けの授業時間が短いクラスもありますので、ご自身のペースに合わせて無理なく勉強が出来るのも強みです。

学校周辺は市内でも比較的街の中心部に位置し、ファーストフード店、和食、SMモール、アヤラモールなどの大型モールもタクシーですぐの立地となっています。

ZA English Academyマボロ校 3つの魅力

1. 日本人にとってストレスフリーな環境

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
日本人経営のため、日本人にとって出来るだけストレスがかからない環境が用意されています。
週2回の掃除・洗濯サービス以外に、セブでは珍しい、洗浄付き便座+水洗トイレ (紙が流せる) を学校と寮の全部屋に備え付けてあります。

また、食事も日本人の好みに合う味付けを準備しています。

勉強とは関係無いと思われる生活環境ですが、できる限り日本と同じ環境を提供できるよう務めている学校です。

2. 快適なインターネット環境

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ校
寮には光ファイバーを導入されており、不自由なくインターネットが利用出来ます。
国情によりWIFI環境が不安定なのですが、できる限り不便な部分を取り除くべく、何度も業者を変えたとか。。。

現在は動画の視聴、通話アプリ、携帯のアップデートなども問題なく行える環境です。

3. 豊富なコース

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ

グローバルインターンシップコース、エステコース、試験対策コース、親子コース、スペシャルマンツーマンコース(1日7コマのマンツーマンクラスオンリー)、エグゼクティブコース、EMCコース等、多くの方のニーズに応えられるようなバラエティに富んだコース展開をしています。

英語+@として、自分の目的に合った方法で効率よく学習することが出来ます。

立地


ZA English Academyの場所はセブ市内のマボロと呼ばれるエリアにあります。
近くにはスーパー、和食、マクドナルド、ケンタッキー、コーヒーショップ、病院もタクシーで10分かからない場所にあり、利便性が高い場所です。

メイン通りから徒歩で5分程度入った場所にあります。

学校施設

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ校
こちらからZA English Academyに入ります。
24時間ガードマンがこのように警備をしており、ガードマンが門を空けないと入れない仕組みになっています。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
宿泊施設を外から見た様子です。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
構内には大学生や社会人を中心に、小学生〜高校生のジュニアキャンプの生徒も時期によっては入っており、活気があります。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
マンツーマンクラスは個室で行います。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
グループクラスは広めの部屋を使います。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ校
オリエンテーションの様子。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
グループクラスの様子です。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
国籍はアジア中心ですが、台湾、中国、ベトナムなどからも留学生が来ています。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
ジュニアキャンプの様子です。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
1週間〜2週間あれば子どもたちも授業になれ、自然と笑顔に。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
グループクラスの様子です。主に先生一人に対して4人で授業を受けることが出来ます。

その他の施設

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
キッズルームも完備。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
こちらは自習室です。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
休憩エリア。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
シアタールーム。夜の特別グループクラスや卒業式などで利用されます。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
学校内にジムを完備。ダンベル、バーベル、ヨガボール、ランニングマシーンも写真には写っていませんが、複数台用意しています。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
ZA English Academyマボロ校は、プールが2つ!
まずこちらが1つ目のプール。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
2つ目のプールです。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
看護師が常駐していますので、体調不良などになってもすぐに対応できて安心です。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
食事風景、カフェテリアの様子です。

土日の様子

ZA English Academyでは、土日にツアーや留学生同士で出かける事が多いです。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
こちらはボランティアのスタディツアーの様子。現地の子どもたちと交流をします。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
こちらはセブ島の観光地として有名な「サントニーニョ教会」。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
フィリピン料理レストランでみんなでバーベキューを楽しむこともあります。

カリキュラム

コース名マンツーマングループコース説明
EMCコース(General Plan)50分×4コマ50分×4コマ一般英語コース。当校で最もスタンダードで人気のコース。
英語の基礎から学びたい方はこちらのプランから。
EMCコース(Self Study Plan)50分×4コマ50分×2コママンツーマン4コマ、小グループ2コマ(最大5名)、強制自習2コマ(監視付き)
自主的に自らの問題意識を見出すことが重要です。わからないことがあれば教師に質問し、疑問を解決していきます。
EMCコース(Special 1:1 Plan)50分×7コママンツーマン7コマ
通常の1:1クラスに加えて「単語」「文法」「発音」のカリキュラムを用意し、英語に必要なすべてのスキルを網羅できる特別なプログラム構成です。
TOEICコース50分×4コマ50分×4コマ戦略的なTOEIC試験対策法と出題される問題演習をします。
TOEFLコース50分×4コマ50分×4コマTOEFL Ibt対策。本番同様、パソコンを使用した実践的な演習が出来ます。
IELTSコース50分×4コマ50分×4コマ問題を解く手法に重点を置いての授業が特徴です。
親子コース50分×4コマ50分×4コマベビーシッターがいるので0歳のお子様から受け入れ可能。
親御さんは安心して授業を受けられます。
グローバルインターンシップ50分×4コマ50分×4コマESL General 12w+インターンシップ4w
インターンシップ先:セブマクタン空港・セブ市内にあるクラウンリージェンシーホテル
エグゼクティブコース50分×3コマ50分×2コマ左記+任意参加のグループクラス‐3コマ
社会人の1週間~2週間の短期留学やシニア留学におすすめ
英語学習と自分の時間もしっかり確保できます。
ZA English Academyは一般英語コースがマンツーマンとグループクラス半々の4時間ずつ、合計8時間です。

もしマンツーマンだけにフォーカスしたい方は、マンツーマン7時間コースも設けています。
TOEIC、IELTSだけでなく、業界では珍しいTOEFLコースも用意。

また、他の学校にはない特徴的なコースは、グローバルインターンシップコースです。
これは合計4ヶ月セブ島に滞在できる事が前提になりますが、3ヶ月間でしっかり英会話を身に着け、4ヶ月目から空港やホテルなどでインターンシップを受けることが出来ます。

明確な目標が出来るため、最初の3ヶ月間を有意義に過ごすことが出来るでしょう。

なお、ヨガが好きな方は学校内で夕食前にヨガクラスを受講することが出来ます。
ZA English Academyのヨガクラス

宿泊施設

宿泊施設は同じ学校内の上の階にあります。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
一人部屋の様子です。

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
こちらは二人部屋

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
三人部屋

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
四人部屋

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
ウォシュレットが付いたトイレ。

周辺環境

ZA ENGLISH ACADEMYの周辺レストラン 悟空(goku)
ZA ENGLISH ACADEMYマボロ校から一番近い日本食レストラン「居酒屋悟空」。徒歩5分ぐらいです。

ZA ENGLISH ACADEMY周辺カフェ degree9
悟空の隣にあるカフェ。無料のWIFIもあります。

BONIFACIO DISTRICT
徒歩10分の距離にあるレストラン街です。

しおさい
日本人の職人さんがいる天ぷら屋さん「しおさい」。
日本と同じサクサクの天ぷらが食べられます。

セブラーメン
三ツ矢堂製麺もあります。

店名ジャンルコメント
居酒屋悟空レストラン日本食。GAGFAビル1階。学校から徒歩5分。
KAYAレストランマナビジンおすすめの韓国焼肉店。おしゃれな店内が人気。
KFCレストランGAGFAビルの真向かい。フィリピンオリジナルメニューあり。
Jollibeeレストランフィリピンではマクドナルドより人気の最大手ファストフード店。
DEGREE9カフェGAGFAビル1階。WIFIあり。
セブンイレブンコンビニGAGFAビル1階。日本のコンビニと同じように品揃え豊富です。
ROSE PHARMACYドラッグストアGAGFAビル1階。飲み物から薬まで揃います。

学校詳細情報

設立年度
2018年
規模
200人
国籍比率
日本人30% 台湾人25% ベトナム人25% 韓国人10% 中国人10% (ピークシーズン除く)
*2019年3月時点 国籍比率は時期によって変動します。
日本人スタッフ
2人~3人常駐
食事
その時期の国籍によって1週間ごとにメニューを組んでいます。日本・韓国・フィリピン料理
学校施設
食堂・図書室・看護室・自習室・シアタールーム・プール・キッズルーム・ウォーターサーバー
宿泊施設
机・椅子・エアコン・扇風機・クローゼット・ベット・シャワー・トイレ(洗浄&水洗便座)・休憩スペース・ジム、ウォーターサーバー
門限
平日、日曜日(翌日が授業):23時まで
金、土、祝前日(翌日が休日):深夜1時まで
入寮・退寮日
入寮日:日曜日
退寮日:土曜日
入学日
毎週月曜入学
清掃
週2回(無料)
洗濯
週2回(無料)
主な学校規則
喫煙、寮内アルコール持ち込み、異性・同性の部屋の出入りなどは禁止
学校周辺
スーパー、日本食料理、ファーストフード店、SMモール、アヤラモール
場所
セブシティ

ギャラリー

学校

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ

宿泊施設

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ ZA ENGLISH ACADEMY マボロ

ZA English Academyマボロ校の動画

留学費用

ZA English Academy
こちらは一般コースであるEMCコース(General/Self study)や親子コースの価格例です。
*コースによって値段は多少異なります。

学校代表者からメッセージ

ZA ENGLISH ACADEMY マボロ
鳥海くるみ
現地マネージャー
こんにちは。ZA English Academy Mabolo Campusのマネージャーをしております、鳥海くるみ(トリウミ)と申します。

当校はアカデミーとドミトリーが一体型の大変便利な学校で、その他にもプール、ジム、シアタールーム、キッズルームなど、他校にない設備が充実しており、とても満足した生活を送ることが出来ますよ。

日本人スタッフも最低3人は常駐していますので、困ったことがあれば順番を待つこともなく即座にサポートさせて頂きます。
初めての英語留学を考えている方であれば、きっと満足して頂けるでしょう!

学校直接問い合わせフォーム

料金のお見積もりや空き状況など、お気軽にお問い合わせしてみてください。
*セブ島留学マナビジンからではなく、Za English Academyから折り返しのご連絡が届きます。

学校公式サイト

ZA English Academy マボロ校 公式サイト
https://www.za-english.com/
(「セブ島留学マナビジン」を見たと伝えて頂くとスムーズです。)

IDEA CEBU(イデアセブ)日系セミスパルタ校。パワースピーキングでしこたま英会話!990ドルから

$
0
0

IDEA CEBU(イデア セブ)は2012年に出来た日系では老舗の語学学校の一つで、セミスパルタ校として有名です。

一般的に韓国系のスパルタ校、セミスパルタ校は外へのアクセスがしにくい環境に学校を作り、その代わり学校施設を充実させて学校だけで完結する形が多いです。

しかしながら、IDEA CEBUはセミスパルタ校ながら商業施設の中にある珍しい学校です。そのため、門限はあるものの周りにカフェやレストラン、バーやSPAもあり、リラックスできる環境が外でも揃っています。

空港からも約30分前後で短期留学生にとっても留学しやすい学校です。

IDEA CEBU 3つの魅力

1.日系のセミスパルタ校でスピーキング

IDEAセブ
韓国系のセミスパルタ校はセブ島内でも多く見かけますが、日系のセミスパルタ校はセブ島にはほとんどありません。

IDEA CEBUはその中の一つです。

合格ラインが設定された毎日の単語テスト、夜8時〜10時の義務自習、最大5時間のマンツーマン授業(+グループクラス授業)があり、1日中えいご漬けの環境があります。実践的なパワースピーキングで、インプットとアウトプットを繰り返して効果的な学習が出来るプログラムになっています。

自分を律したい方や、お子さんの生活が心配な親御さんにおすすめの学校で、生徒もあまり外出せずに真面目に取り組む方が多い学校です。
実際に多くの中学、高校、大学の英語研修先として、このIDEA CEBUは利用されています。

*IDEA CEBUはキッズキャンプも行っています。詳しくはこちらをご覧ください。

2.授業施設+宿泊施設+商業施設の全てが一つ

IDEAセブ
1階〜2階が商業施設、3階が学校施設、4階が宿泊施設と全て同じ建物内にある数少ない語学学校です。

商業施設はコンビニ、和食料理店、洋食、ブッフェスタイルのレストラン、カフェも多数。道路を挟んだ向かいには、大型のモール&スーパーもあります。

また、隣にはホテルが併設しており、土日はリラックスして外食も可能です。
交通の便もよく、土日祝日出かける場合も大変便利。

3.国際資格を持つ質の高い講師陣

Idea Cebu

IDEA CEBUは世界的な英語資格であるCELTA(英語教授法として最も有名)を取得している講師陣がメインとなって、カリキュラムを作成しています。

日系の学校の中では老舗の一つで2012年からスタートしており、既に6年以上の実績とノウハウがあります。

日常英会話、ビジネス、TOEICだけでなく、TOEFLも対応しています。そのため欧米への海外留学を視野に入れている方にもおすすめの学校です。

立地


パークモール隣、シティタイムスクエというレストラン街の3階にIDEA CEBUはあります。
ショッピングモールまで徒歩1分の好立地なので買い物、カフェやレストランもあります。

また、体調不良になった場合も学校内に、救護室があるのはもちろんのこと、タクシーで5分かからずで最新の設備が整った病院があり、安心です。
ジャパニーズヘルプデスクと呼ばれる、日本語が使えるスタッフ常駐しており、日本で海外旅行保険に申し込んでいれば、ほとんどの場合キャッシュレスで対応可能です。

学校施設

IDEA CEBU
学校施設はこちらのTIME SQUARE2の中にあります。

IDEA CEBU
こちらは3階のIDEA CEBUの入り口です。

IDEA CEBU
入ってすぐ左手に・・・

IDEA CEBU
ヨガができるスペースがあります。IDEA CEBUではヨガの授業も取ることが出来ます。

IDEA CEBU
その先に事務局があり、留学中に困ったことは何でも相談できます。
体調不良やカリキュラム相談もこちらで大丈夫です。

日本人は常時2名以上。常に学校研修や企業研修が入る学校なので、スタッフはそれ以上いることが多いです。

IDEA CEBU
事務局の先に授業施設があります。

IDEA CEBU
こちらはマンツーマン授業の様子です。この時はちょうど春のジュニアキャンプが開催されており、30名以上の小学生〜高校生が留学していました。

IDEA CEBU
IDEA CEBUはジュニアキャンプとしてもパイオニア的存在です。
オープン当初からジュニアキャンプを毎年行ってきたのはもちろんの事、ジュニアキャンプの責任者は、既に韓国系〜日系を合わせて15年以上ジュニアキャンプを行ってきた実績があります。

つまり、過去の想定されるトラブルはほぼ経験してきていますので、あまり経験がない学校で起こりがちなジュニアキャンプのトラブルを、IDEA CEBUでは回避することが出来ます。

もちろん、勉強面でもジュニアの方が伸びるためのカリキュラムを作っていますので、IDEA CEBUでジュニアキャンプをすれば、お子さんにとって最高の留学体験が出来るはずです。

IDEA CEBU
ところでIDEA CEBUではこのようにボックス型の半個室で授業を行います。
学習塾が個室ではないように、このように半個室の方がジュニアの方たちにとって緊張感が高まるため、集中する事ができます。

もちろん大人も周りから英会話が聞こえてきたら、集中せざるを得ないでしょう!
ちなみに、ジュニアキャンプを行う時期は繁忙期に限られていますが、そのタイミングでは一般の留学生とはエリアを分けて行うことが多いです。

基本的には、社会人の方はジュニアの方たちと一緒にならないようになっています。

IDEA CEBU
ジュニアキャンプ時のグループクラスの様子。

IDEA CEBU
一般コースのグループクラスの様子。

その他の施設

IDEAセブ

IDEAセブ
食事の風景。食事はカフェテリアで食べます。毎日3食付いてきます。

IDEA CEBU
売店があり、お菓子やジュース、カップ麺なども販売

IDEA CEBU
洗濯物は無料で行ってくれます。

IDEA CEBU
中庭の休憩室です。

カリキュラム

コース名マンツーマングループその他
Power Speaking 445分×4コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
Power Speaking 545分×5コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×1コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
Power Speaking 645分×6コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×1コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
Power Speaking 745分×7コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×1コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
TOEFL Bridge45分×4コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
TOEFL Intensive 545分×5コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(TOFELモック)
30分×1コマ 単語テスト
90分 義務自習
TOEFL Intensive 645分×6コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(TOFELモック)
30分×1コマ 単語テスト
90分 義務自習
TOEFL Intensive 745分×7コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(TOFELモック)
30分×1コマ 単語テスト
90分 義務自習
TOEIC Bridge45分×4コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
TOEIC Intensive 545分×5コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(TOEICモック)
30分×1コマ 単語テスト
90分 義務自習
TOEIC Intensive 645分×6コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(TOEICモック)
30分×1コマ 単語テスト
90分 義務自習
TOEIC Intensive 745分×7コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(TOEICモック)
30分×1コマ 単語テスト
90分 義務自習
BIZ Power Speaking 545分×5コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×2コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
BIZ Power Speaking 645分×6コマ45分×1コマ(小グループ)
45分×1コマ(大グループ)
30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス
BIZ Power Speaking 745分×7コマ45分×1コマ(小グループ)30分×1コマ 単語テスト
オプションクラス

宿泊施設

学生寮

IDEA ACADEMIAの学生寮
こちらは3人部屋、もしくは4人部屋の学生寮になります。

IDEA CEBU
実は授業施設から上がっていけます。

IDEA ACADEMIAの学生寮
4人部屋です。ベッドが上にあり、下が学習机になっています。

IDEA ACADEMIAの学生寮
こちらは3人部屋。

IDEA ACADEMIAの学生寮
各部屋に共用のシャワー・トイレがあります。

IDEA ACADEMIAの学生寮の冷蔵庫
各部屋には共有のミニ冷蔵庫。

IDEA ACADEMIAの学生寮のウォーターサーバー
ウォーターサーバーは廊下にあります。

ホテル寮

IDEA CEBU
隣りにあるBIG HOTEL SUITESを借りています。

IDEA CEBU
ホテルらしく広いベッドに大型のテレビ。

IDEA CEBU
水回りもきれいです。

周辺環境

akita
こちらは学校の一階にある和食料理店「秋田」。日本人オーナーが運営するレストランです。

IDEA CEBU
同じく1階にあるちょっとしたコンビニより気持ち大型のスーパー。

IDEA CEBU
もちろん、セブンイレブンもあります。

IDEA CEBU
道路を挟んだ向かいにある大型のモール「パークモール」

IDEA CEBU
夜遅くまで営業しているコーヒーショップも1階に。

店名ジャンルコメント
秋田
レストラン日本食。IDEA CEBUが入るビル1階。ラーメンが人気。
Buffet101レストランフィリピン料理から西洋料理、刺身、ビールまである食べ放題レストラン。
ultramartコンビニIDEA CEBUが入るビル1階。ドリンクやお菓子など。
セブンイレブンコンビニ24時間営業。
Cafe BerryカフェIDEA CEBUが入るビル1階。24時間営業のカフェ。WIFIあり。
パークモールショッピングモール学校向かい。食料品スーパー、レストラン、カフェ、マッサージ店、両替所など。

学校詳細情報

設立年度
2013年
規模
140人
国籍比率
日本人80%、その他(台湾、ベトナム、タイ)
*2019年3月時点 国籍比率は時期によって変動します。
日本人スタッフ
常駐
食事
1日3食
学校施設
食堂・ウォーターサーバー、ヨガルーム、売店、ランドリーサービス、自習室
宿泊施設
学生寮:机・椅子・エアコン・冷蔵庫・ウォーターサーバー・WIFI
ホテル:机・椅子・エアコン・冷蔵庫・ウォーターサーバー・WIFI
門限
学生寮
・月火水木:20時
・金土祝前日:23時
・日祝:21時
ホテル:なし
入寮・退寮日
入寮日:日曜日
退寮日:土曜日
入学日
毎週月曜入学
清掃
学生寮:週1回
ホテル:毎日
洗濯
週2回
主な学校規則
届出無しの外泊禁止
寮内での炊事・飲酒禁止
学校、寮内は指定場所以外は禁煙
学校周辺
ショッピングモールまで徒歩1分。食料品スーパー、コンビニ、日本食レストラン、レストラン、カフェ、マッサージ店、両替店など。
場所
セブシティ

ギャラリー

学校

IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU

宿泊施設

IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA ACADEMIA IDEA ACADEMIA IDEA ACADEMIA IDEA CEBU IDEA CEBU IDEA CEBU

IDEA CEBUの動画

留学費用

IDEACEBUの料金表
IDEA CEBUの留学費用の一例です。US$表記、Power Speaking5 コースになります。

学校代表者からメッセージ

現在、代表が筆記中。

学校直接問い合わせフォーム

料金のお見積もりや空き状況など、お気軽にお問い合わせしてみてください。
*セブ島留学マナビジンからではなく、IDEA CEBUから折り返しのご連絡が届きます。

学校公式サイト

IDEA CEBU公式サイト

レストラン&バー【RUMOUR】暗めの照明、おいしい食事&お酒。週末はミニクラブ化

$
0
0

セブシティのマボロ地区にある話題のレストランが多く出店するBONIFACIO DISTRICT(ボニファシオ・ディストリクト)。

その1番奥にあるバー利用としてもディナー利用としてもおすすめなレストラン&バーのRUMOURをご紹介します。

薄暗く落ち着いていて雰囲気がいいので、デート利用で二人でゆっくりとお酒を飲む場所としても最適です。

雰囲気がよく大人数でもデートでも!レストラン&バーのRUMOUR

場所

場所はこちら。
マボロにあるサロッサホテルから徒歩5分のところにある商業施設、BONIFACIO DISTRICT(ボニファシオ・ディストリクト)内の1番奥にあります。

ここは今回紹介するお店以外に、UCCカフェやCoCo壱カレー、三ツ矢製麺など多くの有名レストランが出店しています。

バー利用としてはもちろん、食事も種類が多くとても美味しくおすすめでしたのでご紹介します。

外観と内装

RUMOUR
レストランの外観はこちら。

ボニファシオに入って右手1番奥にあります。お店は18時からオープンです。

RUMOUR
中の様子です。奥はソファー席、真ん中にテーブル席とハイテーブル席があります。

RUMOUR
4〜6人までの人数でしたら問題なく入れそうです。

RUMOUR
反対側にはベンチタイプのソファー席。

RUMOUR
カウンター席が4つあります。

RUMOUR
お店の雰囲気も薄暗くて落ち着いているので、ゆっくりと食事できる雰囲気です。

基本的にこのお店は飲みを中心にしているお店です。
そのため夜、遅め行くとライブバンドをやっていたり、週末はDJを入れてミニクラブ化します。雰囲気が時間帯でガラリと変わるお店です。

なお、店内にお手洗いもあり、とても綺麗です。

メニュー

RUMOUR RUMOUR RUMOUR RUMOUR RUMOUR RUMOUR RUMOUR RUMOUR RUMOUR

お店のメニューです。

---食事系---
・トマトスープ175P
・オニオンリング195P
・チーズスティック255P
・シーザーサラダ265P
・ハウスサラダ295P
・トマトサーモンパスタ285P
・ボロネーゼ285P
・リブアイステーキ1200P
・ハーブチキン365P
・ポークベリー355P
・ハウスバーガー365P

---ドリンク---
・コーラ、スプライト60P
・アイスティー50P
・ドラフトビール180P〜
・モヒート190P
・ピニャコラーダ160P
・ジントニック120P

料理・ドリンク共に他のレストランと同じ平均的なお値段だと思います。お酒一杯入れて一人予算500P前後です。

料理

RUMOUR
RUMOUR HOUSE SALAD(ハウスサラダ)295P。

くるみの砂糖漬け、クランベリー、上にチーズ、ドレッシングはメイプルが入った甘酸っぱいドレッシングです。デザート感覚のサラダでとても美味しいです。女性におすすめ。

RUMOUR
GRILLED PORKCHOP(ポークチョップ)395p。

ポークチョップといんげん、にんじんの付け合わせ、ライスはプレーンかガーリックライスが選べます。お肉がとても柔らかく、上のバジルのソースもとても美味しいです。

RUMOUR
HERB ROASTED CHICKEN(ハーブローストチキン)365P。

こちらもいんげんとにんじんの付け合わせ、ライスもプレーンとガーリックと選べます。香りがとてもよく、チキンとよく合います。ボリュームもある一品です。

RUMOUR
ソースはマッシュルームソース。濃厚で味わい深いソースです。

RUMOUR
BEEF SKEWERS(ビーフ串)385P。

見えにくいですが串は3本です。ソースはホームメイドチミチュリといって、アルゼンチン発祥のソースです。パセリとニンニクのみじん切りを、塩と油と酢(オリーブオイルと白ワインビネガー)で和えたものがベースとなっているソースです。

カボスをかけて食べると爽やかさが増します。

料理はだいたい350〜400P前後、お肉はライスも付くのでサラダをシェアしてそれぞれ一品メインを頼めばお腹が一杯になります。

お肉はどれも柔らかく美味しいので、ぜひお肉のメインをオーダーしてみてください。

BONIFACIO DISTRICT(ボニファシオ・ディストリクト)にある店

ボニファシオ・ディストリクトにあるその他レストランをご紹介します。

CoCo壱番屋カレー

CoCo壱
日本でお馴染みCoCo壱カレーがセブに初出店。日本の味が楽しめます。辛さやライスの量、トッピングも自由に選べます。

CoCo壱
客層は日本人よりほぼフィリピン人!人気のレストランです。

https://ceburyugaku.jp/87655/

UCC

UCC
こちらも日本お馴染みのコーヒーチェーンUCC。UCCはアヤラモールにもありますが、2店舗目がここに出店しました。

UCC
朝早くから遅くまで営業しています。ご飯を食べた後にコーヒーを飲むならここがおすすめです。料理の種類も豊富です。

https://ceburyugaku.jp/88139/

三ツ矢製麺

セブラーメン
日本の三ツ矢製麺がセブに初出店しました。日本と同様ゆずつけ麺がセブでも食べられます。麺の量も3段階あるので、飲んだ後にちょっと食べたい!っていうときもOK。

セブラーメン
1番人気のゆずつけ麺。スモールサイズは女性にもおすすめです。

KAYA

kaya
2階にある韓国料理店のKAYA。美味しいサムギョプサルを食べるならここがおすすめです。

kaya
お店の雰囲気もよく、ゆっくりと食事することができます。

https://ceburyugaku.jp/70196/

てんぷらしおさい

てんぷらしおさい
日本人経営のてんぷら専門店のしおさい。日本人が揚げる本格的なてんぷらが食べられます。カウンター主体なので、一人でも気軽に入りやすいです。

食後に行きたいおすすめマッサージ店

インペリアルスパ

インペリアルスパ
ボニファシオディストリクトから徒歩5分、サロッサホテル向かいにあるマッサージスパのインペリアル。ネイルサロンも併設されています。

インペリアルスパ
ジェルネイルが800P、

マッサージの値段は
・パッケージA(ボディ+フット) 90分650P
・パッケージB(ボディ+フット) 120分880P
・ココナッツオイルorオイルマッサージ 60分450P 90分675P

です。

https://ceburyugaku.jp/63186/

ミンタイスパ

ミンタイスパ
インペリアルスパの隣にあるマッサージスパです。こちらは24時間営業なのでいつでも気軽に行けるのが特徴。

ミンタイスパ
マッサージの値段は
Aパック(マッサージ120分+フット30分)1250P
Bパック(マッサージ90分+フット30分)980P
Cパック(アロママッサージ60分+ボディスクラブ60分)1350P
ドライマッサージ 60分→330P、120分→660P
オイルマッサージ 60分→330P、120分→660Pです。

インペリアルとの違いは、バンブーマッサージやカッピングといった変わったメニューにあることです。

https://ceburyugaku.jp/63186/

ウェルスパ

ミンタイスパ
サロッサホテルの1階にあるマッサージスパ。ホテル内にあるので家族づれやご年配の人にも安心です。

ミンタイスパ
マッサージの値段は
ドライマッサージ60分500P
オイルマッサージ60分700P
フット60分400Pです。

https://ceburyugaku.jp/81363/

チーバスパ

Cheevaspa
ボニファシオディストリクトから徒歩10分ほどかかってしまいますが、最近できた新しいスパです。

Cheevaspa
インペリアルスパと同じ系列です。

マッサージの値段は、
パッケージA(ボディ60分、フット30分)900P
パッケージB(ボディ90分、フット30分)1200P
アロマ60分600P
フットマッサージ60分500Pです。

【ファーストイングリッシュ】2歳の息子との親子留学。帰ってきてから2、3文の英語を話すようになりました!

$
0
0

ファーストイングリッシュへのフィリピン留学体験談

・お名前(ペンネーム可) nao7030
・ご年齢 32才
・ご職業 主婦
・通われた語学学校 first english global college
・留学滞在期間 10週間

1,なぜその学校を選んだのですか?

2歳の息子との親子留学を希望していましたので、周辺の環境、学校内にキッズのプレイルームの有無、親子留学の実績がなるべくある安心できる学校をピックアップし、その中から日本人経営だったこの学校に決めました。

セブ市内のほうが便利だとは思いましたが、その分誘惑があり勉強を二の次にしてしまうことは避けたかったので、あえてマクタン島の学校を選びました。

また、ITの授業があり元々自宅で本で学習していたので興味があり、決め手になりました。

2,フィリピン留学前に準備してきた事は何ですか?(勉強やアイテムなど)

【参考書や勉強】
「Essential Grammar in Use」を購入し、 一から自宅で文法をやり直しました。「一億人の英文本」を家事の合間に目を通していました。

【アイテム】
常備薬と蚊には注意しなければならないので虫よけ各種

3,フィリピン留学してみて、準備が足らなかったものは何ですか?

勉強面に対してはもう少しリスニングとスピーキングに力を入れて勉強すれば良かったと感じました。

自宅で独学だったので、どうしても本やCDを聞くくらいになっていたので、オンライン英会話などで英語に対する自信をつけていけば良かったなと思いました。

大人より子供は汗をかくので現地で汗疹になってしまい、汗疹の薬がなく持ってくれば良かったと後悔しました。

4,学校の施設はどうでしたか?

宿泊は学校内のドミトリーの1人部屋に子供と二人でした。大人2人でも使用できる部屋だったので広さは充分にありベッドを二つ繋げて頂き広々と寝れました。

また、子連れだったので床にはカラフルなジョイントマットが敷いてあり、子供用の小さい机と椅子、車の形のボックス、ぬいぐるみ、壁にもシールが貼ってあったりとすごく素敵でした。

フィリピンの学校には珍しいみたいですがシャワー室とトイレが別でした。学校教室はオープンデスクで隣とは壁がなく仕切られてるだけでした。その為近くの人の授業も耳には入りますが、ほとんど気になることもありませんでした。

サービスの良かった点は部屋の掃除が週に何度も入り、その度にベッドシーツなども交換してくれたので快適でした。

10週間の間に自分自身も息子も体調を崩してしまったことがありましたが、食事をお粥にしてくれたり、冷えピタをもってきてくれたりとても有難かったです。

5,授業のカリキュラム内容を教えて下さい

8時間のコースを受けていました。グループクラス2コマ、マンツーマン6コマ。マンツーマンの授業内容は文法、ボキャブラリー、IT(瞬間英作文)、発音、熟語が各1コマずつ。自分に合わなかったり、もっとここを重点的に勉強したいなどあったら変更はいつでも可能でした。

6,最もためになった授業と、ためにならなかった授業を教えて下さい。

ITの授業が一番ためになったと感じました。日本文を見て頭でパッと考え英語で口にだすという授業ですが、普段の英語での会話にも繋がるのでとても良かったです。

conversationの授業はあまり自分には合ってなく感じ、すぐに変えてしまいました。会話の授業なので進んでいけばすごく重要だとは思ったんですが、教科書の最初のほうは中学の最初のほうの英語くらい簡単なもので、1時間受けても新しく身につく感が得られませんでした。

7,周りの環境、治安はいかがでしたか?

少し歩いても近くにあるのは地元の人たちやっている店くらいしかなく、本当の学校の周りは住宅くらいしかないのでヤギ、牛、野犬などが道にいたりとすごくのびのびしてました。

そのため、地元の人や子供が話しかけてきたりするくらいで危ない思いはしなかったです。ただ、夜は街頭があまりないので真っ暗になってしまうので注意が必要です。

地元の人がよく使用するジプニー内ではセブ市内、マクタン市内関係なく注意しなければなりません。他の留学生が携帯などの盗難にあったのはジプニー内でした。

8,食事内容はいかがでしたか?(3食出たのかどうか、味はどうだったかなど)

月曜~金曜が3食。土日は朝のみついてきます。日本人経営なのでメニューも日本よりのものが多く味も美味しかったです。主食、副菜、スープ、サラダ、デザートがありバランスも良く、たまに丼ものがあったりとメニューも豊富でした。

朝はバイキング形式で昼、夜は一人ずつ出してくれるのが良かったです。また子供用には子供用プレートで、辛いものは避けて用意してくれました。

9,インターネットの環境はどうでしたか?

時々wi-fiが切れることもありましたが比較的安定しており、そんなに不満はなかったです。

10,その学校の最大のメリットと最大のデメリットを教えて下さい。

平日の授業の他、土曜の午前中に参加自由の単語マラソンというものがあり、単語力アップができ、周囲にあまりなにもない学校なので誘惑がなく勉強に集中することができる。

ただ、週末は市内のほうに行くのにタクシーで1時間くらいはみないといけない。

11,ずばり、この学校での留学を成功させるコツとは?

朝の授業前の単語テスト、土曜の単語マラソンが参加自由無料で受けることができるので出来るだけ参加し、他の国の留学生と仲良くなり一緒に出掛けることで英語を話す環境を自分で作り出すことが大切だと思います。

12,何か他に留学エピソードや、今後の留学生のためにお伝えしたいことがあればお願いします。

学校が近くのホテルのジムやプールと提供を結んでいるので、安くデイユースで利用できたりするのがとても良かったです。

また、市内のほうではあまり見かけないトライシクルといった乗り物が道端に沢山走っているのでよく利用していましたが、日本には絶対にないものなのでいい体験が出来ました。

ジプニーも同様によく利用し息子は大好きでした。中が狭いので降りる時など少し大変ですが、他に乗り合わせてる現地の人たちが息子を支えてくれたり降ろしてくれたりと本当に親切でした。

どこにいっても子供に優しく2人きりでの留学でしたが、困ったことなどあまりありませんでした。私は3か月弱の留学でしたが1か月、2週間など短期で留学に来られてる方も多く、年齢層も本当にさまざまでした。

自分がいる間にも同じ親子留学が何組も来てました。息子はまだ2歳で日本語もそこまでペラペラではなかったですが、英語を耳にする環境のおかげで発音もなかなか良く、帰ってきてから2,3文の英語を話すようになりました。

他の国の人や子供に全く抵抗感がなく、HelloやHiと自分から挨拶しにいくようになりました。順応性は大人より子供のが断然上でした。留学生活で英語がどのくらい伸びたかははっきりとは分かりませんが、とりあえず言えることは度胸がついた!ということです。

日本ではなんとなく英語で話すことが恥ずかしかったり、間違えてたら…など考えしまっていましたが、間違えててもいいからとにかく話してみる、発音も一発で通じないこともあっても何回か言えばいいじゃないかと自信を持つことが出来ました。そして話したいけど話せないもどかしさも感じたのでもっと勉強しよう、と改めて思えました。

日本にいても勉強はできるけど短い期間でも留学し、英語をいつでも使える環境、使わなきゃいけない環境にいくことが一番なんだと感じます。なので迷っている方、興味がある方は一人でも親子でも恐れずどんどん挑戦するべき。

須藤元気校長率いるWORLD ORDERがセブ島でダンスパフォーマンス ―新曲WE ARE ALL ONE―

$
0
0

セブ島の魅力満点のミュージックビデオが出ました。新曲の名前は“WE ARE ALL ONE”です。元K1ファイターの須藤元気さん率いるWORLD ORDERがセブ島でロケをしたのです。WORLD ORDERがロケをした場所はいつも注目されています。前回は台湾でしたが、今回はセブ島です。

QQEnglishが全面協力したので少し報告をしますね。

須藤元気さんとセブ島の関わり

須藤元気さんは現在、QQEnglishの校長先生をしてくださっています。須藤元気さんはもともと生徒としてセブ島留学に来ていました。時間を見つけては何度もくるリピーターだったのです。

セブ島留学を繰り返すうちにセブ島留学に来る生徒さんの雰囲気やフィリピン人の気質が気に入って、セブ島留学を手伝ってくださるようになりました。

校長をお願いして半年ほどたった時、フィリピンのセブ島を舞台に音楽ビデオを撮ろうという話になったのです。今回はQQEnglishが全面的に協力しましたが、QQEnglishのプロモーションビデオではありません。あくまでもセブ島が舞台のビデオです。

WORLD ORDERとは

WORLD ORDERがセブ島でダンスパフォーマンス
WORLD ORDERは男性5人のグループです。「スーツを着てメガネをかけて髪の毛をキッチリ固める」といった、ザ・日本のサラリーマンといったビジュアルグループです。

そしてパフォーマンスは「一糸乱れぬロボットダンス」で、日本だけでなく海外で高く評価されている人気グループなのです。日本国内では『笑っていいとも!』『中居正広の金曜日のスマたちへ』『情報プレゼンター とくダネ!』『SMAP×SMAP』などのテレビ番組への出演をしています。

WORLD ORDERのミュージックビデオは世界のいろいろな都市で撮影されていますが、セブ島で撮影されたことはありませんでした。

しかし、今回須藤元気さんが興味を持ったのがきっかけで、ついにセブ島が舞台の曲ができたのです。

フィリピンの特徴

WORLD ORDERがセブ島でダンスパフォーマンス
フィリピン人と言えば陽気でいつも働いていないイメージですが、実際は兄弟の面倒をみたり両親に仕送りをしたりする家族思いの国民性です。

人口の10%が海外に出稼ぎをしていて、GDPの10%が海外からの仕送りと言う出稼ぎ大国なのです。海外でのフィリピン人の評価はまじめで良く働く国民としてとても高いです。

フィリピンでは仕事がないことが一番の問題です。国内では、労働力が余っています。買い手市場なのでブラック企業が多いのです。正社員で雇わないで試用期間として6ヶ月だけ安い給料で雇い、正規雇用しないで直ぐに入れ替えてしまうのです。

QQEnglishは全員を正社員で採用して、雇用を創出しようと頑張っていますが少数派です。

勧善懲悪のハッピーエンド

WORLD ORDERがセブ島でダンスパフォーマンス
今回の新曲“WE ARE ALL ONE”はストーリーがあって面白いです。まさに、ブラック企業で働くスタッフが東京にいるWORLD ORDERに助けを求めて曲が始まります。

一糸乱れぬパフォーマンスを見せるWORLD ORDERが、セブ島空港についてジプニー、トライシクル、そしてボートを使ってブラック企業のキングが君臨する邸宅まで救出にくるのです。

悪役はなんと、なんと、QQEnglishのゲイのティーチャーで、ブラック企業の舞台がQQEnglishです。私としては不本意でしたが、セブ島の宣伝の為に全面的に協力しました。

WORLD ORDERは5人のゲイティーチャーとダンスバトルをします。そして、ダンスを通して打ち解け、なんと、なんと、ゲイが女性に変わるのです、、、ははは、、、かなりベタなストーリーですが、それが面白いです。

最後のフィナーレは圧巻です。200人を超える先生がWORLD ORDERと一緒に踊ったからです。

1000名を超える先生が全面協力

WORLD ORDERがセブ島でダンスパフォーマンス
今回の撮影はビックイベントでした。なんと、なんと延べ1000人を超える先生が協力し、撮影で使う会場からパーティーの準備、衣装などの小道具、移動から、撮影までお手伝いさせて頂いたのです。

しかし、しかし、この手のイベントにはなれています。QQEnglishのアニバーサリーやクリスマスパーティーは1500名が集まるイベントになるので、撮影部隊から準備をする特別のチームまでいるからです。

先生たちも面白いことが大好きです。フィリピン人にはラテンの血が流れているのでお祭り好きなのです。とても楽しく参加させて頂きました。

セブ島のイメージアップ

今回は、QQEEnglishの宣伝は一切入っていません。須藤元気さんの意向で、セブ島のイメージアップに貢献することにしました。

たまたま須藤元気さんはQQEnglishで校長を引き受けていらっしゃいますが、一番愛しているのはセブ島であり、セブに住む人々だからです。

今回のビデオを通してセブ島が注目され、ますますセブ島留学生や観光客が訪れるようになれば良いと思います。

フィリピンに雇用を作りたい

先ほど書きましたが、フィリピンには仕事がありません。優秀な人材が海外に出稼ぎに行かなくては仕事がないのです。家族思いのフィリピン人は、本来なら国にとどまって家族と一緒にいたいと思っています。

私はフィリピンに雇用を作りたいと思っているのです。なので、QQEnglishの1200名の先生はすべて正社員ですし、先生以外のメンテナンススタッフもキッチンスタッフもクリーニングスタッフも全員正社員でパートは一人もいません。

ビジネスを考えるとコストがかかりますが、拘ってやっています。しかし、QQEnglishがいくら頑張ってもしれています。

私はもっともっとフィリピンに日本から投資が来てもらいたいと思っています。しかし、残念な事に日本人はフィリピンのことを良く知りません。フィリピン人が英語を話すことすら知らない人が多く居ます。フィリピンイコール汚い、危険、怖いになっているのです。

今回、WORLD ORDERのビデオ撮影に全面的に協力したのは、セブ島がもっと日本で有名になってもらいたいからです。

少しでも多くの日本人がセブ島に興味を持ち、なんだか面白そうだなと思い、観光に行こうとおもったり、仕事をしようと思ったり、ビジネスを立ち上げようと思う人が出てほしいのです。

拡散して頂けると嬉しいです

WORLD ORDRの新曲“WE ARE ALL ONE”をみて、セブ島に興味を持つ方が増えるかもしれません。映像を見て気に入ったらシェアして頂けたら嬉しいです。

セブ島のイメージアップの為ご協力お願いいたします。

QQEnglish代表
藤岡 頼光

QQEnglish ITパーク校の詳細はこちら
QQEnglish シーフロント校の詳細はこちら

セブ島旅行ならフィリピン航空!1人46キロ、セールなら往復3万円〜、公式サイトでの航空券予約方法教えます。

$
0
0

日本の主要都市とフィリピンの主要都市を結ぶフィリピン航空。

最近ではLCC(格安航空会社)が主流になりつつありますが、LCCが不安な方や年配の方、ビジネス利用の場合はやはり一般航空会社の方が使い勝手はいいかと思います。

特にフィリピン航空ですと、成田ーセブの直行便は午前と午後の1日2便出ているので、とても使い勝手がいいです。午前便を利用すれば、15時前後ぐらいから自由に行動できます。それ以外にも名古屋、大阪からも直行便が出ています。

同じく直行便のセブパシフィック航空(LCC)と比べると、1人46キロ(スーツケース2個分)まで荷物を持っていける事が出来るのも魅力!

更に公式サイトから申し込みをすると、座席指定を含めていつでも気軽に取れる点、それからセールのタイミングはスカイキャリナーや代理店を使うよりも安く抑える事が出来る点です。

最近は頻繁にセールを行っているので、旅行期間をフレキシブルに選べる方は、公式サイトのセールは注目です。

そこで、今回はフィリピン航空の航空券の取り方を紹介します。

1.フィリピン航空就航都市

東京羽田ーマニラ
東京成田ーマニラ・セブ
名古屋ーマニラ・セブ
大阪ーマニラ・セブ
福岡ーマニラ

セブ島へ直行便で行く場合は成田・名古屋・大阪のみ。他はマニラ経由もしくは第3国からの経由になります。LCCであるセブパシフィックは成田のみセブ島への直行便があります。

2.フィリピン航空の受託手荷物について

受託手荷物の大きさは3辺(縦・横・高さ)の合計が158cm以下となります。

エコノミークラス利用の場合、一人2個まで預けられて、それぞれ23キロまでが上限です。
ビジネスクラス利用の場合、一人2個まで預けられて、それぞれ32キロまでが上限です。

フィリピン航空の荷物

この情報は基本的に国際線利用の場合です。国内線の場合は細かい規定があります。

国際線荷物規定(フィリピン航空公式HP)
国内線荷物規定(フィリピン航空公式HP)

余談ですが、LCCであるセブパシフィック航空は受託手荷物に関しては全て有料です。重量と個数に関してはこちらの図をご覧ください。

セブパシ

Twitterより引用

3.フィリピン航空の予約方法

それでは実際にフィリピン航空の公式サイトを使って予約してみましょう。

フィリピン航空公式HP

下記の情報は結構細かいので、使ってみて良くわからない場合は参考にしてください。

1.公式サイトを検索する

「フィリピン航空」で検索し、公式サイトに入るとこのような予約画面が現れます。

フィリピン航空

2.出発地と目的地の選択

特に片道の希望がなければ、このまままずは「出発地」と「目的地」を設定します。

「出発地」は自動で成田が設定されているようですが、必要に応じて変更できます。

フィリピン航空
「目的地」でセブと入力。CEBでもOKです。

3.旅行日の設定

①クリックしてカレンダーを表示させます。
②カレンダーの月が変わり、先の日程の予約をすることができます。
③最初に「往路」の希望日を数字の上でクリックします。次に復路の希望日をクリック。

フィリピン航空
フィリピン航空

4.人数の設定

フィリピン航空
「お客様」とあるところをクリックします。

フィリピン航空
例えば大人の人数を選択し、最後に「確認」ボタンをクリックしてください。

フィリピン航空
例えば大人2人、子供1人と入力しても、最終的に表示されるのは合計人数のみです。
内訳の詳細は表示されないので注意してください。

5.利用クラスの設定

クリックするとクラスの選択肢が表示されますので、希望するほうを選んでください。

選択して「完了」をクリックすれば、適切なものが「利用クラス」欄に表示されます。

フィリピン航空

6.フライトの検索

これで入力は完了です。

フィリピン航空
最後に「フライトの検索」をクリックします。

フィリピン航空
この間しばらく待ちます。

7.フライトの選択

検索が終わると、選択した旅行日で可能な往復フライトが表示されます。

まずは往路からです。

フライトと値段を確認し、適切なものをクリックすると復路の画面にスライドします。

ちなみに料金はすべて日本円で表示されていますよ。

フィリピン航空
フィリピン航空

上の2つが直行便。

下に並んでいるのはフライトが2つにわかれMNLが加わっているため、マニラで乗り継ぎがあることがわかります。

往路も同じように希望の時間の便とクラスを確認し、選択します。

エコノミーでも数種類ありますが、手荷物やマイルの付与率が異なるだけです。

フィリピン航空
ちなみに「便名」をクリックすると、利用のターミナルなど詳細が表示されます。

フィリピン航空
また「座席」をクリックすると、全座席の予約状況を確認できます。

ただ記載されているように、現在はこの画面からは座席の指定はできないようです。

さらに先のステップで指定できますので安心してください。

フィリピン航空
往復のフライトを選択すると、画面の下部に「お客様の選択」として、これまでの選択がすべて要約されたものが表示されます。

税込価格として最終的な値段を「トータル」で確認します。

これでよければ最後に「継続」をクリックしましょう。

8.旅程と運賃の確認

フィリピン航空
このような画面に切り替わり、予約内容の詳細を確認することができます。

スクロールすると下部に利用規約などに関する記載があります。

ボックスにチェックを入れるまでつぎには進めませんので忘れないようにしましょう。

フィリピン航空
チェックを入れたのち、「次へ」をクリックします。

9.個人情報の入力

これが後に搭乗券に印字されることになりますので、パスポートに記載の通り正しく入力していきます。
また※印は入力必須事項です。

フィリピン航空
①性別を選択します。
②名、性に分けて適切な空欄に入力します。
③「マブハイマイル」「Etihad Guest」「ANA Mileage Club」の中から該当する方は選択します。選択すると会員番号を入力する欄が現れます。

フィリピン航空
④食事など特別なリクエストがある場合に、ボックスにチェックを入れます。チェックを入れるとこのような感じで選択肢が現れます。

⑤予約完了後に確認メールが送られてくるので、正確に2度入力します。
⑥電話番号を入力します。日本の国コードは「81」です。

連絡先を入力してからさらにスクロールすると、支払方法の選択が表示されます。

希望するものに1つチェックをいれます。

フィリピン航空
支払方法の選択後、画面下部のボックスにチェックをいれ、「お支払いに進む」をクリックします。

これをクリックした後は支払方法の変更が不可となり、変更するにはもう一度予約を取りなおさないといけなくなりますので注意しましょう。

10.座席の指定

支払いを完了する前に、座席表が表示されます。

その見方は座席表に記載がありますが、基本的に青く塗られたシートから選ぶようにしましょう。

フィリピン航空
フィリピン航空

復路の座席表は「見る」をクリックすると切り替わります。往路・復路共に好きな座席を選択しましょう。

確認できたら、「すべてのフライトに座席を提出する」をクリックします。

11.購入する

チケットの購入まであと一歩、最終ステップとなります。

フィリピン航空
①名前はパスポートなどに記載の通りに、スペルなどに間違いがないよう正しく記入してください。
②カードタイプを選択し、番号と有効期限を入力します。
③セキュリティコードはカード裏面にある長い数字のうち、下3ケタの数字です。
④カードに記載の通り、大文字で名前を入力します。
⑤とりあず※印は必ず埋めるように、住所をローマ字で入力します。

最後に「購入する」をクリックして支払いが完了します。

注意書きにもあるように、支払いに少し時間がかかるため、勘違いして何度もクリックすると複数の請求が上がる可能性がありますので注意しましょう。

まとめ

LCCにはない魅力がある一般航空会社であるフィリピン航空。成田ーセブ間は往復だいたい6万円前後で取れます。

LCCが往復3〜4万円で取れるのでそれに比べたら高いですが、急な予定変更や対応はやはり一般航空会社に軍配が上がります。特に仕事でスケジュールが不安定な方や、翌日必ず帰国しないとまずい!という人は、フィリピン航空を使った方がいいです。

たまに行われるセールを使えば、エコノミーなら往復3万円〜、ビジネスシート利用でも往復10万円ほどです。

ぜひ、フィリピン航空を使ってフィリピンへ旅行してみてください。

セブパシフィックを使った航空券の予約はこちら

https://ceburyugaku.jp/22308/

CEGA(セガ)の口コミ・評判の体験談(2件)

$
0
0
DMEに満足!費用と時間を作って来たいと思える学校でした!
良かった点
・私が通った時期は生徒数が20数名ということもあり、カリキュラムやスケジュールなど相談すると随時変更頂けました。元々小規模校を希望していたので、やはり小規模な学校にして良かったです。

・カリキュラムの中でもDMEにとても満足しています。英語を使ってのコミュニケーションは出来ますが、きちんと文法を使っていなかったので、その癖が少し抜けました。やはりスムーズに話そうとするなら、文法も大切だと改めて認識しました。DMEは質問と答えをスムーズに答えられるまで繰り返すので、私にはぴったりの学習法でした。

帰国してもDMEを続けたいと思うので、CEGAのオンラインレッスンを申し込もうと思っています。

・またマザーティーチャーという担任の先生がついてくれる制度がありましたので、マザーティーチャーが学校以外のことでも何でも親身に相談にのってくれたので初めての留学でしたがあまり不自由なく過ごせました。

・食事も毎日が楽しみなくらい美味しくて、今日のランチは何だろうと朝から思っていました…笑笑
私はフィリピン料理が苦手なので、日本食が提供されるのは本当に助かりました!
お気に入りのメニューは天丼、カレー、ハンバーグ、オムレツ、オムライス…etc

改善点
仕方がないかもしれませんが、学校も寮も建物が少し古いです…。清掃は行き届いているので汚くはありませんが、新しいキレイな学校に少し憧れます…

寮のシャワーが熱くなったり冷たくなったり温度調節ができない時がありました…他の学校と比べて1人部屋が安かったので、コスパを考えると納得はしています。

総評

(4.0点)
カリキュラムや先生にはとても満足しています。4週間があっという間でもっと勉強したかったです。
小規模校なので生徒同士の距離も近く楽しく過ごせました!

シャワーの水圧が弱かったり、ペンションとして一般に部屋を貸し出ししているため隣の部屋にフィリピン人が来るとちょっとうるさかったりするので、−1にしました。

カリキュラム重視する人にはオススメします。
生活も重視する人は第2寮のコンドミニアムにするか他校をオススメします。

また費用と時間を作って来たいと思える学校でした!

2019年4月〜5月(4週)/女性

本当にこの学校を選んでよかったと思います。
良かった点
1.「学生寮、1日三回の食事、学費全て含めて他の語学学校よりも安め」
学生や留学に迷ってる方でも手軽に留学できる料金制度だと思います。実際私も転職途中で経済的余裕はあまりなかったですが、宿、ごはんもあってこの値段ならと留学に踏み切ることができました。

またペンション型とホテル型など予算に合わせて選べることもよかったです。

2.「学生寮から学校までの距離がかなり近い。」
学生寮ペンション型からは学校までの距離が徒歩2分ほどで治安の心配もありません。
ホテル型からもさほど遠くなく、また初日に寮から学校まで、スーパー、両替場などしっかり案内、説明してくださるのでその点も安心できました。

3.「生徒と先生の距離が近い」
学生数が多くないので、グループレッスンでも全然話せないなんてことは本当にないです。先生達はみんなとてもフレンドリーで優しく授業以外でもたくさん話しかけてくれます。授業も興味のあることや、もっとこんな勉強がしたいと話すとすぐに対応してくれます。

本当に楽しく学ぶことができました。

改善点
私は特に気にならなかったですが、終始学生のほとんどは日本人でした。多国籍な学校を期待している方は向いていないかもしれないです。

しかしこの学校に来られている方はみんな個人でしっかり勉強できる方が多かったので、逆にやる気が沸きました。

ホテルプランの場合は全ての食事がペンション型の方に用意されるので、食事の時の移動が少しめんどくさいかなあと思います。

総評

(4.5点)
4.5点の理由は私が4週間しかいなかったため、長期留学で行くかたの参考にはならないからです。

4週間という短い間ですが、私の英語力で足りない部分や、発音矯正、帰国後の勉強方法までしっかりフォローしてくれました。英語での悩みや相談はすぐ対応してくれます。

本当にこの学校を選んでよかったと思います。

2019年2月(4週)/女性

CEGAへのお問い合わせはこちら

料金のお見積もりや空き状況など、お気軽にお問い合わせしてみてください。
*セブ島留学マナビジンからではなく、CEGAから折り返しのご連絡が届きます。

CEGAの詳細はこちら

Viewing all 1946 articles
Browse latest View live