第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
前回の記事はこちら
→第1部 3章 満州事変(4/5)国際連盟からの脱退と満州の見果てぬ夢
4.満州事変はなぜ起きたのか
4-10.満蒙開拓団は語り続ける
その1.500万人移住計画
満州については功罪様々な論がありますが、満州国が短期間のうちに近代的な国家として栄えたことは、日本にとっての功であったといえるでしょう。
その一方、満蒙開拓団のたどった悲劇は、日本にとっての罪です。満蒙開拓団とは、満州事変の後、日本が満蒙地区に送りこんだ農業移民団のことです。
日本が本土だけでは抱えきれないほどの多くの人口を抱えていたことは、先に紹介しました。日本人が移民できる土地を、政府は必死に探していました。欧米列強は人種差別を露わにし、黄色人種の移民を認めません。そんなときに日本人移民の受け入れを表明してくれたのは南米のブラジルでした。日本は1907年からブラジルへの移民を開始しています。
満州の開発が進むにつれ、日本人の移民先として満州が候補にあがるようになりました。しかし、当初は満州への移民は不可能であるとする論の方が主流でした。温暖な気候に慣れた日本人には、寒冷地の満州は不向きとされたのです。
農本主義指導者として知られる加藤完治と、京都帝国大学教授で農業経営学者であった橋本傳左衛門が中心となり満州移民を推し進めようとしましたが、これを一蹴したのが高橋是清蔵相です。
高橋蔵相は満州移民に異を唱えました。それでも昭和恐慌が続くなか、農民の惨状が広がるにつれて農民からも満州への移民を希望する声が強くなり、試験移民が開始されました。
満洲 NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る (洋泉社MOOK) より引用
水曲柳(すいきょくりゅう)開拓団の人たち
満洲国吉林省野藺県水曲柳にあった。937年から長野県下伊那・飯田近辺の人たち千数百
人が入植し、引き揚げ時に多くの犠牲者を生んだ。
転機となったのは、1934(昭和9)年にブラジルで「移民二分制限法」が公布され、日本移民は年間3千人以下に制限されたことです。そのことは満州移民へと世論を動かしました。
国家政策による満州移民へと大きく舵を切ることになったのは、1936(昭和11)年2月26日、高橋蔵相が暗殺された 2・26 事件が起きたからです。満州移民の防波堤だった高橋蔵相の死により、満州移民は一気に動き出します。
広田弘毅を首班とする内閣は、「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画するとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も立てられ、実行に移されました。

wikipedia:広田弘毅 より引用
広田弘毅(ひろた こうき) 1878年(明治11)年 - 1948(昭和23)年
明治-昭和時代前期の外交官・政治家。駐ソ大使・外相を歴任、二・二六事件の直後に第32代内閣総理大臣に就任。日独防共協定に調印。第一次近衛内閣の外相となり、終戦直前にソ連の仲介による和平交渉にあたるも失敗。「エリート外務官僚であったが静観主義をとり、軍部に追随した」と評価されている。戦後、A級戦犯として南京虐殺事件の外交責任を問われ、文官中ただ一人絞首刑となる。
当時の日本の人口は約7千万人です。500万人が移住するとなると、日本人100人のうち7人が満州に渡ることになります。あまりにも現実味に欠ける計画でした。
ブラジル移民とは違い満州移民は国策として実行されるだけに、渡航費は全額補助される他、開田費や建築費、農具・家畜などの購入に対しても一定額の補助金が交付されました。希望すれば誰でも身一つで移民に参加できたのです。
食べるものを数日間口にできず、娘の身売りさえしなければならない貧苦に喘ぐ農民にとって、満州への移民は生きるための選択でした。長野県や東北地方をはじめ、多くの農民たちが、満州に骨を埋める決意をしました。
その2.開拓という名の略奪
『図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
千振村の開拓団親子。千振には多くの開拓団が入植していた。
こうして満蒙開拓団は新天地を求めて満州へと渡ったのです。ほとんどの農民たちは、「開拓団」の名の通り、満州の荒野を開拓する覚悟でした。ところが満州に着いてみて、農民たちは驚きました。
荒野を開拓するどころかすでに広大な田畑が用意されており、家屋まであてがわれたのです。
現地召集され、シベリア抑留を経て帰国した男性団員は「行ってみると、すでに、もう土地、家屋、全て関東軍の方から買収済みで、農地から住宅全部買い上げてあるもんですから、もうそのままの形で入植するということで、びっくりしたとですよ」(『赤き黄土』)と語った。
『移民たちの「満州」』二松啓紀著(平凡社)より引用
農民たちはすぐに気がつきました。ここには少し前まで中国人の農民が家族とともに生活を営み、田畑を耕していたに違いないと……。
事実、その通りでした。関東軍は日本人の入植地として、一つの村を丸ごと中国人から買い取っていたのです。土地の買収といっても、それは武力で脅して略奪したも同然の行為でした。
地域によって異なるものの、土地の買値は時価の3割から1割程度という不当な金額でした。しかも支払いは遅れ、中国人の農民たちはなかなか現金を手にできませんでした。立ち退き料は1人あたり5円ほどです。5円は日本人移民1人に支払われた1ヵ月分の食事代に相当しています。
ただし、そこは中国人農民が先祖代々暮らしていた土地ではありません。先にもふれましたが、満州は清朝によって長いこと封禁の地とされていたため、不法に入居して不法に土地を開墾した農民を除けば、中国人農民が入植したのは日本人移民がやってきた一世代前あたりです。
それでも荒野を耕し、村を作ったのは中国人の農民です。日本人が来るまでは、幼い子供たちとともに平穏な暮らしをしていました。ところが武力を背景に無理やり田畑と住居を奪われたのです。
中国人農民たちにとって昨日までの我が家に住み着き、彼らの田畑を耕す日本人移民は、憎悪の対象でしかありません。中国人農民は彼らの土地と家を取り戻すために、度々日本人移民を襲撃しました。
清朝の歴史を振り返っても明らかなように、中国という国家に対して満州国の建国が一方的な侵略であったと断じることには疑問が残ります。しかし、満州に暮らす農民にとって、日本人が彼らの生活の基盤を根こそぎ奪ったことは、侵略以外のなにものでもなかったのです。
現地に来てはじめて入植地が中国人農民から奪ったものだと知った開拓団の人々は、少なからぬショックに襲われました。されど武器を手に襲撃された以上は、家族の身を守るために戦うよりありません。多額の借金を抱えて満州に来た開拓団の人々には、もはや日本に帰る場所はありませんでした。満州での生活を成り立たせなければ、生きてはいけなかったのです。
開拓団が最初に手にしたものは農機具や種子ではなく、銃と弾薬でした。こうして負の連鎖が始まりました。
その3.満州の平和神話
開拓団が入植した先々で、中国人農民と開拓団による武力闘争が繰り広げられました。いつからか日本人に逆らう中国人はすべて匪賊とみなされ、虐げられるようになりました。
満州国が建国の際に掲げた「五族協和」の理念は、近代国家の建設時にはまだしも発揮されていたものの、農業政策においては完全に破綻(はたん)していました。
それでも満州への移民は続けれました。若年層の徴兵や軍需産業への動員によって深刻な労働力不足に悩まされるなか、満州への移民を希望する農民の数は減少しましたが、500万人を目標に掲げた満州移民計画はそのまま維持され、市町村ごとに移民の戸数が割り当てられました。
割り当てられた戸数を満州へ積極的に送ることを条件に市町村への補助金が交付されたため、地方公共団体ごとに村人を無理やり満州へと追いやる動きも見られました。戦後になって満州移民をすすめた過ちを悔い、自殺した市町村長や役人もいます。
大東亜戦争末期になっても、なお満蒙開拓団は市町村によって送り出されました。その背景には、空襲を受ける本土の混乱とは打って変わり、満州には戦禍がまったく及んでいなかったことが影響しています。満蒙開拓団には徴兵の義務がなかったため、徴兵を逃れるために満州に渡る人々もいました。
満州はなにがあっても平和であると、多くの人々が信じたのです。
ところが終戦間際になると精鋭の大半が南方戦線に割かれたため、関東軍は戦線を維持することさえ危うくなり、18歳から45歳までの在満日本人男子約25万人に対して「根こそぎ動員」をかけました。
『図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
男性が動員された後に残されたのは、写真のような子供たちや女性・老人ばかりだった。中国人に比べて日本人の子供たちの服装はきれいだった。そのことが余計に中国人の怒りを買った。
昨日までは田畑を耕していた農民が関東軍に編入されてソ連と国境を接する前線に送られました。まともな武器さえ事欠く有り様で、竹槍や木銃で武装するよりなかった農民も多々います。
そして、1945(昭和20)年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は精鋭157万以上の大軍をもって怒濤(どとう)の如く満州に押し寄せました。
その4.開拓史上最大の悲劇
朝日新聞 より引用
ソ連の侵攻経路と旧満州国
https://www.dhm.de/fileadmin/lemo/suche/search/SolrQueryProxy.php?q=Ostfront&h=80& より引用
ソ連軍による満州侵攻
ソ連の満州侵攻と関東軍劣勢の情報をつかんだ関東軍将校と日本人官僚、満鉄社員とその家族は、南部の安全地帯へといち早く避難しています。
悲惨を極めたのは、取り残された開拓団の人々です。男は動員されており、残っていたのは子供と女性、老人ばかりです。
関東軍はすでに敗れて退却し、ソ連の侵攻を食い止める者は誰もいません。ソ連兵は逃げ惑う開拓団の人々を無慈悲に虐殺していきました。白旗を揚げても攻撃はやむことなく、戦車は日本人の女性や子供をひき殺しました。
選報日本 より引用
目黒五百羅漢寺の本堂に掲げられている「葛根廟(かっこんびょう)事件邦人遭難の図」
1945年8月14日、ソ連軍の満州侵略を受け、満州国興安総省の葛根廟に避難していた約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍と遭遇した。浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺され、戦車による避難民ひき殺しが行われた。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。200名を超える児童を含む避難民1,000名以上が虐殺された。民間人を故意に狙った虐殺は明らかな国際法違反。こうしたソ連軍による虐殺は満州各地で起きた。▶関連リンク:葛根廟事件 wikipedia
生き残った女性は陵辱され、略奪も横行しました。ソ連兵から逃げたのも束の間、次に襲いかかってきたのは中国人です。
田畑と家を奪われた積年の恨みは、開拓団の人々に一斉に向けられました。虐殺と暴行、強姦と略奪のなかで、多くの開拓団の村では集団自決が相次ぎました。
逃げても地獄でした。鉄道も爆破され、船もないなか、泥道を歩くしか逃げ出す術はありません。逃避行は人目に付かない夜に行われました。食糧は尽き、体力の劣る老人と子供から次々に倒れていきました。川に流されていった子供たちも大勢います。
集団から離れ、逃げ遅れた日本人の運命は過酷でした。暴徒化した中国人に襲われ、荷物も着ている服も下着まですべて奪い取られました。やむなく麻袋に首と手を通す穴を空けて服代わりにした女性も数多くいました。麻袋さえ手に入れられない人は裸のままです。
逃げる間に産気づく女性もいました。赤ん坊を育てたくても母親は食べるものを口にできないため、母乳はまったく出ません。赤ん坊の泣き声は、中国人に見つかる危険を高めます。
子供が生まれると、赤ん坊は母親に見せることなく草むらに捨てることが、女性たちにとって暗黙の了解でした。暗闇にいつまでも響く産声に耳をふさぎながらも、前に進むよりありませんでした。
我が子の命を助けたい一心で、心ある中国人夫婦に子供を預ける母親も多くいました。それが残留孤児です。敵国である日本人の子供を養育することは、中国人にとっても命がけの行為でした。
のちにスパイ容疑で投獄された中国人養母もいます。拷問を受けながらも小さな命を守ろうと、日本人の息子の身をひたすら案じ、死んでいった養母もいました。文化大革命の最中に日本人の子供を育てた罪で拷問を受けた養父もいます。
人間としての情愛が、民族の壁を越えることもあったのです。
http://dametv2.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/70-ec38.html より引用
逃避行を続ける開拓団を襲った寒さと飢え
やっとの思いで収容所にたどり着いても、そこからまた生きるための戦いが始まりました。まともな食糧は配給されず、多くの日本人が餓死しました。
ソ連は満州のすべてを略奪していきました。略奪は「工場のトタン屋根一枚、柱一本、ネジ一本にまで至った」と綴られています。収容所の建物の多くは略奪により、窓ガラスや畳がなく、廊下の板さえないほどでした。
寒さと不衛生のなか、チフスなどの伝染病が流行り、多くの子供たちの命を奪いました。開拓団の人々は帰国までの間、飢えと寒さと病の三重苦に苛まれたのです。
やがて収容所にソ連兵が押し寄せ、「男は全員外へ出ろ」と銃を向けました。家族と別れを惜しむ間もないまま多くの男性が連行され、そのままシベリアへと送られました。
開拓団から動員されて関東軍に編入された人々も、捕虜となった後、その多くがシベリアに送られています。シベリア抑留は完全なる国際法違反です。57万5千人が極寒のなか強制労働に従事させられ、そのうち5万5千人が亡くなっています。
戦地の日本兵の引き上げが始まっても、満州に取り残された民間人の引き上げはなかなか始まりませんでした。1946(昭和21)年、ソ連が撤退し国府軍が東北に進駐を開始することで、ようやく引き上げが始まっています。
満州にいた155万人の民間人のうち、17万6千人が帰らぬ人となりました。そのうちの4割以上を開拓団の人々が占めています。
終戦時、根こそぎ動員された4万7千人を除くと、開拓団の総人数は22万3千人とされています。そのうちの8万人が逃避行と収容所の暮らしのなかで命を落としました。
満蒙開拓団は、世界の開拓史上最大の悲劇といわれています。満州国が滅び行くなかで、その大地に8万に及ぶ開拓団の人々の血が流れたのです。
もし、2・26 事件で高橋是清蔵相が暗殺されていなければ、大規模な満州への移民は避けられたことでしょう。国策として満州への移民を推し進めた日本政府と、それに加担した地方自治体の責任は問われるべきです。
こうして多くの日本人が満州に寄せた希望は、陽炎のようにはかなく絶ち消えたのです。
ここまで満州事変から筆を起こし、満州について追いかけてきました。満州とは日本人にとって何であったのか、あなた自身で考えていたければ幸いです。
ただひとつ指摘しておきたいことは、戦後の日本が短期間のうちに復興を遂げ、奇跡とも称される経済発展を成し遂げた背景として、満州国での経験の蓄積が大きな影響を及ぼしているという事実です。
満州の地で官民が一体となって取り組んだ経済運営による成功体験は、戦後の日本においてより大規模に活かされ、世界第二位の経済大国にのし上がる原動力となりました。
その意味では今日の日本の繁栄は、満州があったからこそもたらされたともいえるでしょう。
満州には陰もあれば、光の射す部分もあります。陰ばかりを見つめても、光ばかりを見つめても、真実は見えてきません。
織りなす陰影を見極めながら満州について思いを馳せることも、後世に残された私たちの義務なのかもしれません。
満州事変については以上です。
それでは最後に、ここまでの歴史を年表で振り返ってみましょう。
年号 | 日本 | 満州・中国 | その他の世界 |
---|---|---|---|
1616 | ヌルハチが後金を建国 | ||
1627 | ホンタイジが軍を朝鮮へ遠征させる | ||
1636 | ホンタイジが国号を大清国と改める 民族名を「女真」から「満州」に改める | ||
1644 | 李自成の反乱により明国が滅亡 清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言 | ||
1689 | 露清間にネルチンスク条約 – 国際的に満洲全域が正式に清朝の国土と定められた | ||
1740 | 満州に漢人の移住を禁止する封禁令を発する | ||
1858 | 露清間にアイグン条約 | ||
1860 | 露清間に北京条約 – アイグン条約と併せ、外満洲地域がロシアに割譲される 満州への漢人の移住を奨励 | ||
1878 | イスラム教徒の反乱を平定後、満州封禁が徐々に解除される | ||
1900(明治33) | アムール川事件 – ロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺される | ||
1904(明治37) | 日露戦争、勃発 | ||
1905(明治38) | 日露講和条約(ポーツマス条約)調印 | 満州に関する日清条約調印 – ロシア・ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡される 鉄道王ハリマンの極東計画 | |
1906 (明治 39 ) | ハリマンの覚書が無効となる 米英が満州の門戸開放を日本に要請 南満州鉄道(満鉄)が資本金2億円で設立される | ||
1907(明治40) | 第1次日露協約 | 日本の開発した大連が上海に次いで中国第2位の貿易港に躍進 | |
1909(明治42) | アメリカが満州鉄道の申立化を策す | ||
1910(明治43) | 第2次日露協約 | アメリカの満州鉄道中立化計画を日露両国が拒否 | |
1911(明治44) | 辛亥革命、清朝滅亡 満州への漢人の移入が急増 | ||
1912(明治45) | 第3次日露協約 | 中華民国の成立 中華民国が清朝領土の継承を宣言 満洲は張作霖軍閥の支配下となる | |
1915(大正4) | 日本が中国に二十一ヵ条要求を出す 中国が二十一ヵ条要求を受諾 | ||
1916(大正5) | 第4次日露協約 | ||
1917(大正6) | ロシア革命 | ||
1918(大正7) | 日本軍、シベリア出兵 | 日本軍が北満洲及び外満洲の大部分を占領 | |
1922(大正11) | 日本軍、シベリア撤兵 | 日本軍による北満州の占領が解除される | |
1924(大正13) | 国共合作を成し遂げた国民革命軍が華北へ進撃 | ||
1926(昭和元) | 昭和に改元 | 孫文が死亡、中国は内戦へ 張作霖が東三省の独立を宣言 蒋介石の北伐開始 汪兆銘による武漢国民政府成立 | イギリス連邦を形成 |
1927(昭和2) | 昭和金融恐慌、始まる 労働争議、相次ぐ 幣原外交への反感から若槻内閣倒れる 田中義一内閣発足 東方会議の開催 – 対中国積極策の基本政莱「対支政策綱領」を決定 モラトリアム(支払猶予)を実施 東京地下鉄道が開業(上野~浅草間) | 南京事件 – 蒋介石の北伐軍が南京を占領した際に、中国共産派の煽動で外国の領事館や居留民などを襲撃、米英軍艦が南京砲撃 漢口英租界事件 漢口事件 – 蒋介石の北伐軍が武漢攻略の際に、漢口の日本租界を襲撃 蒋介石の上海クーデター - 国共分裂 南京国民政府の成立 日本軍、第1次山東出兵 張作霖が北京に軍事政府樹立、大元帥となる 中国共産党の南昌起義 武漢国民政府が南京国民政府に合流 毛沢東が江西省に革命根拠地樹立 | ジュネーヴ海軍軍縮会議 - 軍縮は不成立 アメリカのリンドバーグ、大西洋無着陸横断飛行に成功 |
1928(昭和3) | はじめて普通選挙が行われる | 蒋介石が国民政府主席に 蒋介石の北伐再開 日本軍、第2次・第3次山東出兵 済南事件 - 蒋介石の北伐軍が日本人を襲い、その後日本軍と武力衝突 張作霖爆殺事件 蒋介石の北伐完了 – 蒋介石の南京国民政府による中国統一 関税自主権承認の中米条約調印 (のちにイギリスとも関税自主権承認に調印) アメリカが蒋介石の国民政府を承認 蒋介石、国民政府主席に就任 日清通商航海条約の一方的な破棄を中国側が通告、日本側は拒否 張学良による満州易幟(えきし) - 北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、張学良が国民政府に降伏 | パリ不戦条約 イタリアでファシストが独裁体制を確立 ソ連でスターリンによる第1次5か年計画開始 アムステルダム・オリンピック |
1929(昭和4) | 浜口雄幸内閣発足 再び幣原平和外交始まる | 国民政府内での内戦起こる 南京の月刊誌『時事月報』に田中上奏文が発表される 張学良が満鉄と並行する吉海線を開通 中ソ紛争 – 張学良が中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を奪おうとしたがソ連軍が撃退し、全ての権益を回復 | ニューヨークでの株式大暴落をきっかけに、世界大恐慌始まる バチカン市国の成立 |
1930(昭和5) | 緊縮財政と金輸出解禁により金流出、輸出不振 昭和恐慌、始まる - 輸出減少・企業経営悪化・農産物価格の暴落 統帥権干犯問題 浜口首相が狙撃される | 幣原外相による日中関税協定の調印 - 中国の関税自主権を承認 満州の間島で共産党主導による暴動が発生 中国で中原戦争 – 蒋介石に反発する軍閥の反乱 | アメリカでホーリー・スムート関税法施行 - 超保護関税政策による外国製品排除(アメリカの経済ブロック化) インドのガンジーが「塩の行進」 ロンドン海軍軍縮会議 |
1931(昭和6) | 三月事件 - 桜会が中心となって計画した軍部内閣樹立クーデター未遂事件 第2次若槻内閣発足 十月事件 - 桜会が右翼を加えて計画した軍部内閣樹立クーデター未遂事件 東北地方冷害による飢饉で、女子の人身売買が横行 犬養毅内閣発足 高橋是清財相による金輸出再禁止、管理通貨制に移行 | 国民外交協会の主催による排日会議 満州で中村大尉殺害事件 満州で万宝山事件 - 用水路をめぐる水利問題で、中国人農民が朝鮮人農民を襲撃 柳条湖事件から満州事変勃発 – 日本軍が奉天を始め満鉄沿線の主要都市を占拠 林銑十郎朝鮮軍司令官が朝鮮軍の満州越境を開始 日本政府が不拡大方針を発表 関東軍が錦州を爆撃 国際連盟理事会が満州撤兵を勧告 天津で日中両軍衝突 溥儀が天津を脱出 日本軍がチチハル占領 | 朝鮮で朝鮮排華事件 – 万宝山事件をきっかけに、朝鮮半島で朝鮮人が中国人を襲撃 イギリスが金本位制を離脱 |
1932(昭和7) | 血盟団事件 - 井上準之助前蔵相が狙撃されて死亡 五・一五事件 – 海軍の青年将校が犬養毅を暗殺 斉藤実内閣発足(挙国一致内閣) | 日本軍が錦州占領 第1次上海事変 リットン調査団による調査 満州国の建国宣言、溥儀が執政に就任 上海での停戦協定成立 日満議定書調印 – 日本政府が満州国承認 平頂山事件 リットン調査団、調査の結果を国際連盟に報告 | アメリカでスティムソン・ドクトリン オタワ協定にてイギリスがブロック経済を形成 イギリスが日印通商条約の廃棄を日本へ通告 – インドへの日本製品の輸入を抑制 オランダが緊急輸入制限法を成立させる – 東インド(インドネシア)に対する輸出の制限 ニューヨーク取引市場で生糸の取引価格が大幅に下落 第10回ロサンゼルス・オリンピック |
1933(昭和8) | 国際連盟総会でリットン報告書に基づく対日勧告案が可決され、松岡代表は席を蹴って退場 国際連盟脱退 滝川事件 – 大学の自治と学問の自由へ の弾圧 神兵隊事件 – 右翼によるクーデタ ー未遂事件 | 山海関で日中軍衝突 日本軍、山海関を占領 日本軍、熱河に侵入 国際連盟総会で満州事変に関するリットン報告を採択 日本と中華民国とで塘沽協定成立 | ドイツでヒトラー内閣が成立 ドイツが国際連盟を脱退 フランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任、ニューディール政策を開始 ナチスのユダヤ人迫害が始まる |
1934(昭和9) | 東北地方の大凶作、欠食児童が相次ぐ 忠犬ハチ公の銅像が渋谷駅前に 陸軍内で皇道派と統制派による派閥争い激化 「国防」が流行語となる 岡田啓介内閣発足 日本がワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告 ベーブルースを主将とする米プロ野球選抜チームが来日 | 溥儀が満州国皇帝となる 毛沢東の中国紅軍が長征を開始 ローマ法皇庁が満州国を承認 満州の大連・新京間に「あじあ号」が運転開始 | ヒトラーが国家元首となる インドのネールが国民会議派の指導者となる アメリカで互恵通商法、成立 – 日本は対象外とされる イギリスがイギリス植民地(インド、ビルマ、マレーシア)向けの日本製綿布・人絹に対して輸入制限を実施 蘭印(インドネシア)において、日本製綿布に対する輸入制限を実施 ソビエト連邦が国際連盟に加入し常任理事国となる アメリカがキューバの独立を承認 |
1935(昭和10) | 天皇機関説事件 真崎教育総監が罷免される 貿易収支が17年ぶりに黒字となる | 日満関税協定成立 蒋介石・汪兆銘連名による排日運動厳禁を訓令 中国で排日テロが頻発 日満ソ3国で北満鉄道買収協定に調印 梅津・何応欽協定成立 新京・ハルビン間が開通 中国共産党による抗日救国宣言 冀東防共自治政府の成立 | アメリカが植民地であるフィリピン向けの日本製綿製品に関する輸入制限を実施 イタリアがエチオピアを侵略 |
1936(昭和11) | ロンドン軍縮会議脱退を通告 二・二六事件 – 陸軍の青年将校が要人を襲撃 戒厳令宣告 軍部大臣現役武官制復活 満州国開拓移民、20年で100万戸500万人計画策定 日独防共協定成立 | 綏遠(すいえん)事件 – 内モンゴル軍が綏遠省で中国国民党軍を攻撃するも失敗 西安事件 – 張学良が西安で蒋介石を監禁。周恩来が調停し、国民党と共産党との連携による抗日運動が開始される 満州国産業開発五カ年計画案決定 | スペイン内戦 ソ連でスターリン憲法を制定 ベルリン・オリンピック |
1937(昭和12) | 日独伊防共協定 | 廬溝橋事件から支那事変へ 皇帝溥儀の弟溥傑、嵯峨侯爵令嬢浩と結婚 第2次上海事変 日本軍が南京を占領 | イギリスの自治領オーストリアにおいても、日本製綿布・人絹に対して輸入制限が実施 |
1945(昭和20) | 関東軍が満州開拓団の男子を根こそぎ動員 ソ連軍が満州侵略、日本人居住民の虐殺相次ぐ 開拓団の集団自決、頻発 ソ連による満州占領 | ||
1946(昭和21) | 満州からの移民引き揚げが始まる | ソ連軍が満州から撤退 満州は蒋介石率いる中華民国に移譲される | |
1948(昭和23) | ソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の人民解放軍が満洲全域を制圧 |